風便り op.2


投稿 風便り #2

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op.20 うなぎ その2  森川秀安さん(東京都) H18/3/8


 戦前に読んだ本に、デンマークの生物学者(名前は失念)が大西洋中のうなぎの仔魚を長年に亘って採取した結果、バーミューダ沖の深海で産卵することを突き止め、次は太平洋沿海のうなぎの産卵場所に取り掛かる予定だったのに、20世紀はじめに猛威を振るったスペイン風邪に罹って亡くなったというのです。

 私はその時、うなぎの産卵場所は世界で一箇所かもしれないと思ったのですが、戦後暫らくして太平洋のうなぎはフイリッピン海溝、その後はマリアナ海溝、最近のニュースではマリアナ諸島西の海山という発表がありました。次なる興味は、インド洋のうなぎはどうなっているのかということです。

 鹿児島県に大うなぎが棲息している池があるそうですが、そこでどんな観察あるいは研究がされているか知りませんが、海と隔絶している場所でも、うなぎが沢山居るからそこで繁殖しているとは断定出来ないと思います。

 うなぎは水路がつながっていなくても、離れた水のある場所を感知する能力を持っており、必要に応じて陸路を移動することがあるようで、畑でうなぎを捕まえたという話も聞きます。

 うなぎは皮膚呼吸も出来るし、ぬるぬるしている皮膚は水分の蒸発をかなり抑止する性能があるそうです。だから出生と無関係のとんでもない所にも居るのだと思います。

op.19 うなぎ その1  森川秀安さん(東京都) H18/2/27


 三十年近く前、知人に招かれて家族ぐるみで初めて長崎市を訪れた時、何処にでも案内しますというのでまず野母半島の突端の大ウナギを見に行きたいと言ったら、市内観光ではない突飛な注文をするものだから、知人は長崎の人でも知らないのにそんなこと何故知っているのかと、呆れ顔で聞き返した。

 ぜひ見に行きたいとかねがね思っていた処なので、子連れではあったが迷うことなく野母崎の井戸にしたのだが、さいわい知人も子連れだったし、名所旧跡を廻るより子供たちもドライブのほうが退屈しなかったようだ。

 若い頃に本で知ったのだが、そこの民家の井戸に大ウナギが一匹棲んでいて名前も付いており、ほかのウナギは井戸の石組みの隙間に小さくなっていて、親分の顔色を伺いながら暮らしているというのだ。そして何十年か経って親分が死ぬと、次の一匹が急速に成長してボスになり名前も付くのだが、あとは相変わらず小さくなって暮らしているということだった。

 その本には、井戸の中で繁殖しているのではなく、水脈が海と繋がっているのではないかということだが、水質の変化で現状が維持されるか懸念があると書いてあったから、それから更に数十年後の今日どうなったかが心配だった。

 野母崎の突端まで行くと、目と鼻の先だが渡し舟に乗らなければ行けない樺島にその井戸はあったが、数軒の民家が共同で使用している釣瓶井戸だった。早速覗いて見たら数メートル下の水面が見えるだけだったが、家から出てきたお婆さんの話では大ウナギは居るけれども、いつも姿を見せるわけではないとのことだった。

 折角ここまで来たのだからと去りがたく、しばらくして覗き込んだら、なんと親分が水面に浮かび上がってきた。長い時間ではなかったが、子供たちも入れて8人がかわるがわる眺める間、大ウナギは水面に居た。

 黒い頭に白っぽいところがあったが、お婆さんは釣瓶にぶつかった傷だと言った。 大ウナギが顔を見せてくれたので、みんなを遠方まで付き合わせた甲斐があったと私は安堵した。

 今はどうなっているのかとインターネットで調べてみたら、現在の樺島は橋が架かっていて、長崎市野母崎樺島とあったが、長崎市の観光案内には全く触れられていなかった。

 もうウナギが棲息していないとか、井戸がなくなったのでなく、合併した町村の観光案内まで手が廻らないという理由であってほしいと思った。

 ここの大ウナギをはじめ日本の湖沼に棲む主のような大ウナギや、時折、沿岸で獲れる大ウナギは、普通のウナギより胴回りの比率が著しく高く、味が脂っこくて旨くないそうですから、無厳さんが四万十川で獲ってきて、食べたことを悔やんでいる「うなぎ」もこの大ウナギだったかもしれませんね。そうだとしたら、四万十の正統な主ではないのだからそれほど後悔しなくてよいのではないでしょうか。

op.18 三丁目の夕日DVDを観ました  森川秀安さん(東京都) H18/2/9


 無厳さん おはようございます。三丁目のDVDを有難うございました。今朝までに一応見終わりましたが面白かったです。この前の映画評で「古い画像や文献で調べるのが主で、自分の経験や記憶がないのかも・・」と記しましたが、DVDを観て、映画の製作スタッフはこの画面を参考にしたのだと思いました。

 私は原作を見たことがないのですがDVDが原作に近いとすれば、情景の配置は原作に忠実だったのだと思います。映画のパンフに昭和33年の「東京下町の夕日町三丁目」とあったので、私の頭のなかにある東京下町、山手環状線の中とその東の隅田川沿いの中央、台東、墨田、江東あたりをイメージしていたものだから違和感があったのですが、この前に記したように私の知らない新下町でした。

 DVDには、炭屋が家庭に石炭を運ぶ場面があり煙突も写っていましたし、郊外電車の踏み切りもあり、自動車修理屋には垣根のある庭もありました。小学校の校舎も木造二階建てでした。これらは、昭和33年当時でも東京では新開地にしか見られなかったと思いますが、そのような処にも下町的暮 らしや人情があったことを否定するものではありません。

 寅さんの葛飾柴又だって場所的には私の言う東京下町には入りませんが、寅さんとその周辺の人たちが演じていることはまさに東京下町の一典型です。おはようございますといったのに、ワープロ不慣れで打ち終わるのが昼近くなってしまいました。DVDの続きがありましたら、またよろしくお願いします。

op.17 映画 「三丁目の夕日」 を観て  森川秀安さん(東京都) H18/1/20


 無厳さん推奨の「三丁目の夕日」を先週の木曜日に新宿武蔵野館で観ました。久々に映画館に行ってみると最近の傾向のようですが、複数の上映館が同じフロアにあって、その一つで「三丁目」をやっていました。だから正確に記すと、新宿武蔵野館1で「三丁目」を観てきました。 入場券は千円(60歳以上)でしたが、昔のような無料のパンフレットはないので、分厚い七百円のパンフを買ってみると、写真や画入りの詳しい、記憶力の衰えた私には都合のよいものでした。

 無厳さん愛読の「三丁目の夕日」も著者の西岸良平氏も私は全く知らないので、パンフにある西岸氏の「原作を大切にした素晴らしい映画」という言葉がどこまで本音なのか判りません。もし無厳さんが映画を観たのなら、あるいはこれから観たら、原作の「こころ」にどのくらい迫っている作品なのか御感想を頂きたいと思います。

 昭和33年建設の東京タワーを背景に展開される、豊かではないが夢に向かって日々を生きている人々の下町の暮らしぶりと人間模様を描いたという設定ですが、世評も好いようです。 細かいことを言えば、青森から集団就職列車で自動車修理の町工場に住み込んだ娘の親から、娘には内緒にしてくれと頼まれていた親から雇い主宛の毎月の手紙を十ヵ月後?にまとめて娘に見せるシーンがありますが、そんな長い期間、郵便が娘の目に触れずにいるのは、画面の家の造り、郵便配達夫などから私には不自然に感じましたが、その程度のことは二、三ありました。

 気になったのは、下町の道、それも商店もある表通りの道が土だったことです。私の子供時代の裏通りでもほとんどがアスファルト舗装でした。また、水はけを考慮して道はかまぼこ型にやや中高なのですが、画面は全くフラットでした。 それに塀のある家がやたら多かったですが、東京の下町には塀に囲われた家など滅多にありませんし、画面にあるような高い木が社寺の境内でもないところに生える空き地はないから、郊外の下町的に発展途上にある地域という感じです。 酔いつぶれた町医者に巡査が「この辺は狸が出る」と言っていたし、道端に丈高い雑草も生えていたから、そういう私の知らないたたずまいの新下町のようです。

 パンフによると、スタッフは家並みのほか商店に並べる商品を季節ごとに換えるなど、観客が見落とすほど細かいところまでこだわって努力した様子が述べられていますが、多分若い人が多くて、古い画像や文献で調べるのが主で自分の経験や記憶がないのかもしれません。

 荒物屋の冬の店頭に苦労して探してきた石炭ストーブを並べたと記されていますが、東京の下町にはガス管が張り巡らされているし、ガスを使用しない家庭では七輪に木炭か豆炭です。炭屋は沢山ありましたが、石炭など扱っていなかったと思いますし、コークスを扱っている店があったとしても、それは家庭用ではないです。

 これは戦後の下町でも七輪が減って電熱器が増えたものの同じだと思います。でも、そんなあら捜しなどするのは私のような年寄りのすること、若い人は昔の下町の物は乏しくても支えあう人々の温かさを感じ取れればよいのだと思います。ご報告かたがたくどくどと申し立ててしまい失礼しました。無厳さんのおかげで久しぶりに映画館に出向いて楽しかったです。

op.16 白木屋の火事 森川秀安さん(東京都) H17/12/17


 最も賑やかだった日本橋交差点の角にあった白木屋には、エスカレーターがあって上り専用だったのですが、館内にベルが鳴り渡る閉店時だけ下りになるというもので、当時どこにもなかった(と思う)珍しい乗り物でした。

 私は白木屋の火事の翌年に小学生になったのですが、1年生の初めての図画の時間に自由題で描いた画は、ビルデングの窓という窓から炎が噴出すものでしたが、先生の採点は乙でした。

 家に帰って母に見せると「なんなのこれは」と不満げな顔つきでした。白木屋の火事が頭にあったのだと思いますが、当時の一年生の画は「富士山に朝日」が定番でしたから、かなり社会派だった?のかもしれないのですが、先生も母も評価してくれませんでした。

 次は古い証券マンからむかし聞いた話ですが、証券取引所のある兜町と白木屋は三、四百メートルの近さで火災がよく見えたので、白木屋の株は売り物殺到で暴落したそうです。ところが、白木屋は火災保険に入っているという情報が伝わると、一転買戻しで反騰したということでした。今も昔も変わらぬ生き馬の目を抜く街のこぼれ話でした。

op.15 豆腐屋のリベート 森川秀安さん(東京都) H17/10/19


 豆腐屋は日暮れ時にラッパを吹きながら複数が時間をずらして、自転車かリヤカーに豆腐、油揚げを積んで毎夕辻辻を廻ったが、哀愁を帯びたあのラッパの音を聞きながら、遊び疲れた日暮れ時に家路を急いだ記憶が強いためか夕暮れを連想するのだが、毎朝大きな四角い竹篭を袈裟懸けに背負った納豆売り(小学校高学年から高等小学校の少年が多かった)や、「アサリー、シジミー」の呼び声で荷台に貝を載せて自転車を走らせる小父さん、来たことを鈴を鳴らして知らせる総菜屋同様、今思うと豆腐屋は朝も来たような気がする。

 日中も、野菜を箱毎に仕分けした荷車の八百屋、今日の魚を筆で書き入れた経木を片手に御用聞きに廻る魚屋のお上さん、毎日ではないが屋根付きの大きな荷車にあらゆる商品を満載した雑貨屋も来たから、買い物に行かなくても家に居乍らにして日常のものは大抵間に合うのだが、時間が合わない、気に入った品物がない、値段が気に食わないなどの理由で買い物に出掛ける人もある。

 出掛けるといっても徒歩5分から10分以内に同様の店があるという、便利な場所というよりは人口密集地帯の下町に私は少年時代を過ごした。

 戦前の下町は、一歩入った裏通りは何処でもそんな佇まいだったと思う。
子供が「お使い」をするのは当たり前で、それは日常の買い物が多いのだが、品選びの必要の無いものがほとんどで、豆腐屋、酒屋、コロッケやポテトフライも作っている肉屋などがその代表だ。

 豆腐屋にお使いに行った記憶もあるが、家の前を通りかかった豆腐屋を呼び止めたこともあるから、豆腐をいつも店に買いに行っていたわけではなかったかもしれない。豆腐屋には、一丁とか二丁とか数量のほか、賽の目とか奴とか、その日の食べ方によって、買う時に指示すれば、幅の広い真鍮の包丁で手早く切って持参の鍋に入れて呉れた。

 我が家が行きつけの豆腐屋は、子供がお使いに行くとお駄賃に一銭を呉れたが、多分ほかの豆腐屋も対抗上お駄賃を呉れたと思う。お駄賃は買い上げ価格に関係なく一銭だったから、子供の使いに対する報奨金のようなものだった。

 酒屋も子供の使いに煎餅を呉れたが、これも使いの奨励金みたいなものだった。豆腐屋は濡れ手で煎餅というわけにいかないから銭だったのかもしれない。

 子供のいない家庭や、自分の子が外出している主婦が家を空けられない時など、子供たちが群れている路地に向かって「誰かお使いに行かないか」と大声を上げれば、遊んでいる子供たちの中から間髪をいれず必ず応募者が名乗りを上げる。同時に複数の応募者の時もあるが、この場合は求人側が決めることもあるし、求職者が譲り合うこともあるが、一定の秩序が保たれていて争いになることはまずない。

 使いの子供は買い物先でリベートが貰えるし、たとえリベートのない使いであっても、依頼者からはリベートの有無にかかわらず必ず駄賃が貰え、しかも使いの難易度によって、あるいは依頼者の気分次第で、それは一銭とは限らないという楽しみもあるのだ。

 親の手元不如意で銭にありつけない日でも、額に汗すれば路地裏の子供たちにチャンスが転がり込んで来ることもあったのである。

op.14 寿命  森川秀安さん(東京都) H17/2/21


 子供のころ、私は西暦二千年まで生きられるかと時々思いました。1927年3月生まれの私は72歳10月ほど生きなければ二千年は迎えられません。当時は50、60で死ぬのは普通で80歳の人など稀でした。私の身近にも88歳で亡くなった母方の曽祖父以外70歳に達した人はいませんでした。当時でも世間では70歳過ぎまで生きた人も大勢居ましたから、私が73歳まで生きることは不可能ではなかったけれど、確率は低かったのです。

 しかし私が二千年に達したとき、平均年齢は私の歳を超えていましたから、私が特に長命だったから21世紀を迎えられたというわけではありません。終戦のとき私は18歳、其の年の私の誕生日の東京大空襲で父と弟妹4人が死に、母と兄と18歳下の妹が残りました。

 私は36歳のとき、あれから18年経ち、生まれてからあの時までと同じ歳月を生きたという感懐に浸りました。45歳の時には、父が死んだ歳に達したのだという思い、67歳の時には母の亡くなった歳になり、すでに兄は亡くなっていたので私が我が家の最高齢に達して、これがどこまで更新されるのかと思いました。
そして73歳の二千年も飛ぶように過ぎて来月は早や78歳を迎えます。

 友人との会話の中で「いつ死んでもいいけれど、死ぬまでは元気でいたい」と口癖のように言っていた私は、最近それが極めて不遜な発言であることに気がつきました。むかしラジオの講談で、前後は忘れてしまったのですが、沢庵禅師が臨終の時、弟子が辞世をと望むと、「死にたくない」と言ったので再度辞世を促すと、また「死にたくない」と言った。講談師は「悟りを開いた禅師でさへ本当は死にたくない、生に執着があるものなのだ」という意味のことを語った。

 それを最近ふと思い出しましたが、いま私は、禅師は「未熟の弟子たちの指導を残したままでは死ねない」と枕辺の弟子達を戒めたのか、「このわしでさへ、この世でまだ修行するべきことがある」との意ではないかと考えています。そして「いつ死んでもよい」などと口はばったいことが言えない自分に初めて気が付いたのです。

op.13 趣味について  森川秀安さん(東京都) H17/2/10


 「思い出せば恥ずかしき事の数々・・・」は寅さんのせりふですが、先日我が家で資料探しをしていたら、わずか一年半10号をもって立ち消えになった昔の職場の同人誌が出てきました。何人かの世話役がいて私もその一人だったのですが、原稿が集まらなくて毎号のように穴埋めの投稿をしていました。その中の作品の一つを、くだらないので前半だけご披露します。(1956年2月作) まさに「思い出せば恥ずかしき事の・・・」ですが、時間の無駄をご承知の上お読みください。

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  【同人誌「苗」昭和31年2月号から抜粋】
 もう六七年も以前のこと、私はある女性を愛していた。かりに彼女の名前をKとしておく。Kに初めて会った日は、桜のつぼみが、其処此処でほころびはじめた頃だったから、四月の上旬だったのだろう。その日、私は、彼女によって、いままで経験したことのない歓びを味わうことができた。
肩に垂れたぬれているような黒髪、適度に盛り上がったひきしまった筋肉、腰から脚へかけてのすばらしい曲線...、私はその日から、陶然として彼女の姿態のとりこになってしまったのだ。

 Kは私を、あるときは歓喜の絶頂に押し上げ、またあるときは失意のどん底に投げ込んだりした。
何年かの交渉の後、ときおりは小遣いまでくれて私を楽しませてくれた彼女は、私に一言の別れの挨拶もなく、突然私の眼前からその姿を消してしまった。あとで私は、Kが東北のさる高原に行ってしまったことを人伝てに聞いた。

 しかし私は、実際のところ、そろそろKに飽きはじめていた。彼女はむかしほど私を楽しませてはくれなかった。彼女は老いてきたのだ。その胸も脚も以前のように張りきってはいなかった。彼女が健康なときでさえどことなく生気がなかった。
それでいて、Kがその裸体を私の眼前に現すと、むかしの彼女の幻想にとらわれて、ついつい私は手をだしたくなってしまうのだった。

 そのKが遠いところへ行ってしまったのだ。私はさばさばした気持で、彼女のことなぞやがて忘れてしまっていた。私はそのころはもう、他の女性に夢中だったのだ。
そのKのことが数年後の今日、彼女の娘を前にして、忽然と思い出されて来た。

 いま私は眼前に居る彼女の娘の肉体を見やりながら、嘗ての若かりしKを思い出しているのだ。
その母親と瓜二つの面長な娘は、七年前、はじめて私に歓びを与えたKのようにぴちぴちしていた。それは完成された美であった。
私は、七年前彼女に抱いた激情が胸中に沸っているのをはっきりと意識していた...。

 これは、或る若き女性の、はちきれるような裸体を眺めながらの私の感想であるが、文章が前後するので、もとに戻すことにする。

 私は、私の趣味について一文を草するつもりなのだ。
私の趣味...。まず第一は、ときもところも定めぬ気ままな独り旅、しかしこれは環境がそれを許さない。
第二は、落着いた雰囲気でクラシックな音楽を聞くこと、とりわけベートーヴェンを中心にモーツアルトからワーグナーぐらいまでの...。
しかしこれでさえ、いまのところ、あまりその機会に恵まれない。

 そのほかに持ち合わす趣味も、目下のところ実現できないものばかりであるが、ただ一つ現在でも楽しめる趣味、いや、実際に時折は楽しんでいる趣味...。それは、気品ある若きエリザベス女王と同じものである。
その趣味は、日本語では”競馬”と言っている。

 ここまで読めば、賢明なる読者諸氏は、冒頭の女性が誰であるかお解りのことと思う。
そう、私が愛している、また、かつて愛した女性とは、内国産サラブレッド四歳の若駒とその母馬のことである。

 ふざけた奴だ、気をもたせやがって、などとお腹立ちの向きがあるかもしれない。
筆者が私であることに留意して頂けば、はじめから、そんな”人間”の女性などいるわけがないとお気付きの筈なのだが...。

 しかし、若し私の冒頭の文によって、諸氏が、諸氏の御経験または想像力によって、美しい女性の白き肉体、その他諸々を連想したとすれば、それは諸氏の記憶力の優秀さ、想像力の逞しさを確認する機会を得たわけなのだから、左程、御立腹になることもないものと思う。

op.12 馬・馬・馬  森川秀安さん(東京都) H17/1/8


 昨年、競馬ファンのみならず多くの注目を集めたハルウララが、今春、武豊騎乗の引退レースが実現するかどうかで早くも話題を賑わしています。 あらためて気づいたのですが、高知は「馬」に縁が深いのですね。 藩祖山内一豊が出世する前に、良馬を求める金がなく、一大事のために秘匿していた持参金を妻に出してもらった話は小学校の教科書にあったように記憶していますし、語るに及ばない坂本竜馬、播磨屋橋で坊さんが簪を買ったほどの美少女お馬さんなど土佐の全国的有名人が「馬」に縁がありますね。 私が気づかないだけで、まだほかにもいろいろあるのでしょうね。

op.11 秋野君の弁当箱  森川秀安さん(東京都) H16/1/21


 私は昭和8年4月に東京市深川区に十幾つかある小学校のひとつに入学して昭和14年(1939年)3月に其処を卒業した。「サイタ サイタ サクラガ サイタ」という多色刷りの国語読本(国定教科書で全国共通)を初めて使用した昭和生まれの第一期生である。一学年上の兄の読本は黒一色刷りで、挿絵の子供達も和服姿で呼び名も「お花、お絹」だったが、私の読本は折襟の洋服で「正雄、花子」だった。

 当時の深川は下町には違いないが、小津安二郎作品に出てくるような場末というか新開地だった。入学時の同級生は72名で同期生は300名を超えていた。教室が足りず、一年生は二部授業といって午前の部と午後の部の組に分け、一週間おきに交替した。

 ピーク時には全校生徒は2000名を超えていたから、学年が異なれば勿論、同学年でもクラスが違えば名前を知らない者がほとんどだった。4年生の時に一度だけ大規模なクラス替えがあって、男子2クラス、女子2クラス(いずれも60名超)のほかに男女組1クラスが出来たが、男子14名、女子25名の当時としては異例の小人数だった。他の4クラスを60名にして超える人数を回せば男女組も60名近くなるのだが、このクラスは児童を選別した特殊学級だった。

 私の学校は当時から実験校的であったが、明示されたわけではないが身体の弱い者を集めたという。弱いといっても、欠席率が高いわけでもなく体格のよい者もいたし皆元気だったが、強いて言えば腺病質なところがあったのかもしれない。

 寄せ集めの4年生になった時、1年生から同級だったのは6名だったがその中に秋野君がいた。6、70名もいると同級生でも主に家が近いかクラスの席が近い者が遊び仲間になるのだが、秋野君を含む5名の同級生は私の仲間ではなかった。私だけでなく6名はお互い名前は知っていたが親しい仲間ではなく、クラス替えになって60数名から切り離された時に、あらためて同級生だった事を認識したのだった。

 秋野君は1、2年生の頃、我が家に近い親の知り合いの家に預けられて通学していたので顔見知りだったが、同級生が6名しか残らなかった4年生の時まで友達ではなかった。しかし親しい仲間でなかった秋野君について、一つだけよく覚えていることがある。

 2年生か3年生の時だったと思うが、午後も授業があるようになって弁当を持って行くようになった。当時は学校給食はなく、原則は弁当持参だが、昼の1時間の休憩時間に自宅へ食べに帰ることが許されたがこれを「食べ」と言っていた。学校に近い者は「食べ」の者が多かったが、その連中でも雪の日など天気が悪いとその日は弁当持参の者もいた。

 弁当となるとそれなりの「おかず」を用意しなければならないし、こしらえるのに手間もかかるが、「食べ」は何時ものようにありあわせで間に合わせられるから親は楽だ。

 昼飯は冷えたご飯に味噌汁をぶっ掛けて掻き込むというのは珍しいことではなかったから全く手間がいらないし、食べる方もすぐ校庭に戻って仲間と遊ぶ事が出来た。

 弁当は海苔弁、猫弁(かつ弁)など、おかず入れ不要の時もあったが、アルミ製の弁当箱の中に4分の1ほどの同じアルミ製のおかず入れがあって、あさりの佃煮、干鱈、目刺、ひじきと油揚げの煮物などが入れてあった。つゆの出るおかずは敬遠されたが、高学年になった頃、つゆのこぼれない別製のおかず入れが出回った。

 さて弁当持参初日、みんなうきうきしていたが、親も新しい弁当箱に初日だからと卵焼きなど普段と違うおかずを入れるのもあった。肝腎の私のおかずが何だったか全く覚えていないのだが、1級上に兄がいたから、多分兄と同じいつものおかずだったのだと思う。

 「食べ」は半分くらいいたと思うが、この日の昼はほとんどが弁当だったような気がする。

 一斉に弁当を開くと急に賑やかになったが、秋野君が弁当箱を持ったまま歩き出した。彼の弁当箱はご飯が全く見えず、一面真っ赤だった。よく見ると、漬物屋から買ってきたままの大きさの、刻んでない紅生姜で覆われている。

 秋野君はこの紅生姜をほかの連中のおかずと交換したが、しばらくして戻ってきた彼の弁当の蓋にはいろいろなおかずが満載されていてニコニコしながら皆に見せていた。

 4年生から秋野君の席は私のすぐ前だったが、自宅は船で昼時は停泊場所にいないことが多いから引き続き弁当だった。でも、いつも覗きこんでいたわけではないが、おかずに紅生姜が入っているのを見たことはない。

 時々、ジャガイモなど野菜の煮物がおかずだったが、いつも薄い色をしていた。多分味噌汁の具を掬って入れたのだと思う。幼い弟妹がいたし船だから買い物も陸の住人より大変だから弁当のおかずが間に合わない事もあるのだろう。だから紅生姜に覆われていたあの弁当も、秋野君の好物というよりおかずになるものが他になかったのかもしれない。

 秋野君は薄味のじゃがいもだろうと何だろうと何時も旨そうに食べていた。

 弁当箱は新聞紙で包んだり、布製の袋や小さな風呂敷にくるんだりしていたが、冬は冷めないように新聞紙で包んだ上さらに風呂敷や、女子は毛糸で編んだ弁当袋に入れていたが、秋野君は季節にかかわらず、当時としては新しい小判型の弁当箱を裸のままズックのかばんの狭い方に入れていた。

 弁当箱を取り出してから、ごそごそと同じ入れ場所の底の方を手探りして箸を掴むのだが箸箱には入っていない。黄色い塗り箸の先には大抵かばんの綿埃が付いて来るが、秋野君がひと噴きするとキレイになる。

 何時も見ていたわけではないし、秋野君もいつもうしろを見ながら食べていたわけではないが、ご飯に箸を突き立て、上目使いに私を見ながら食べ始める秋野君の表情は今でも忘れられない。

op.10 続 秋野君はいま何処に  森川秀安さん(東京都) H15/10/27



 昭和55年頃ではなかったかと思うのだが、秋野君はクラス会で隣り合わせた私にだけ、いま独り暮しなんだと言った。理由は、家の新築に際して女房と長男が彼に相談しないで計画を進めたのが原因で喧嘩になり、面白くないから家を出たというのだ。あとは他の級友が私に話しかけてきたので中断してしまったから詳しい事情は判らない。相談しなかったのは新築するしないではなく間取りか内装のことだと思うが、その内容よりも家長である秋野君に相談しなかったことが彼の気に障ったらしい。だが秋野君が憤然席を蹴ったからといって、新築が中止されたわけではなかった。要は秋野君の父権が軽くなっていたのだが、彼がそれに気づかなかったか、認めたくなかったのだ。女房とすでに社会人の長男の連合軍の力が彼に勝っていたのだ。秋野君は自分が大船で女房達が小船だと思って棹で突いたら、女房達が大船だったから自分が後退してしまったのだ。そこで止めとけばよいのにむきになって押すものだから、自分の力で更に後退することになってしまい、弾みで家を出ることになってしまったのだと思う。女房と長男は船ではなく岸壁だったのかもしれない。

 それから2、3年後、秋野君は日通を定年退職した。日通が世話してくれると言った職場は誰も行きたくないような処だったので彼は其処を断わったが、世話したのに行かなかったという口実が出来たから会社はそれっきりだった。そんな時、一緒に仕事をやらないかと知り合いに誘われて、あなたが社長と煽てられ退職金を全部注ぎ込んだのに、次か次の次のクラス会の時には倒産してひどい目にあっているとぼやいていた。

 秋野君の会社は、建築現場や道路工事の歩行者の誘導などをする何処にでもある警備員を派遣する小規模のものだったが、話しを持ちかけた知り合いの男というのが悪で、事業がうまくいかなかったのではなく、その男が使い込んだか持ち逃げしたか、ある日突然姿を消したのだ。当然、従業員から未払い賃金を払えと社長である秋野君は追い掛け回されているというのだ。退職金を失ったばかりでなく、なまじ社長などやっていたから秋野君は経験したことのない苦労を味合わせられているのだ。私は退職金を貰った時が秋野君の帰宅の潮時だと思っていたが、彼はチャンスを逸してしまった。「これでローンを返しておけ」と二人の前に退職金をポンと置けば、気がねなく家に入れた筈だ。長い勤めの中で秋野君が「長」であったことはなかったかもしれないから、彼が家長であることは大事なことだったに違いない。だが女房子にそれを否定されては、社長の声に誘惑されたのも解らぬでもない。

 秋野君は独り暮しを楽しんでいたのではないと思う。年一度泊りがけのクラス会を三浦海岸の私の職場の保養所で開いていたが、帰りには決って妹の処に寄って行くと言って横浜で下車した。彼の唯一の理解者であるかもしれない妹の家でくつろいでいたのだと思う。「お兄いちゃんがちょっと頭を下げればいいのに」「ばかやろう何であいつ等に俺が頭を下げなければならねんだ」という寅さんばりの会話が聞こえて来そうだが、さくらは寅さんの帰るべき家にいるが、秋野君の妹は彼の家にはいないのだ。

 クラス会を打ち切って5年、秋野君も76歳になる。倒産後、使われる身になった彼は警備員をしていたが、5年前のクラス会では新入りの指導員をしていると言っていたが、深夜業もあるし風雨の日もあるからもう辞めたと思う。たとえ彼が望んでも雇ってくれる処はないだろう。秋野君も歳には勝てず、間が悪いが折れて家に帰っただろうか。そして今頃は孫でも連れて勝手知ったる川筋ではぜ釣りでもしているだろうか。それとも秋野君の綽名「エチオピア」のハイルセラシエ皇帝が革命政権に屈することなく一切の妥協を排して、ソロモン大王、シバ女王3000年の後裔の尊厳を死に至るまで貫いたように、彼も家長としてのプライドを維持しようとしているのだろうか。

 秋野君が幼時を過ごした隅田川に通じる掘割の半分くらいは、親水公園や高速道路下の公園となっているが、そこにはコンクリート壁を背にして南面する場所に青いビニールシート張りのホームレスの小屋が点在している処がある。もう其処には船を浮かべる流れはないのだから、もしまだなら意地を張らずに、家族の待つ我が家に早く帰って貰いたい。いや、もう帰っているかな。 (平成15年10月24日記)

op.9 秋野君はいま何処に  森川秀安さん(東京都) H15/10/21




 今は無くなってしまったが、東京の水路を運航する小型船の水上生活者の児童を対象とした「水上小学校」という名の学校が、隅田川河口の月島にあった。 1年から6年まで通しての数少ない同級生の一人、秋野君は深川を縦横に走る掘割を拠点とする人力で動かす達磨船の船頭の子供だったが、何故か寄宿舎もある水上小学校に入らずに小名木川に近かった私の小学校に通っていた。

 1、2年生の時は私の住まいに近い親の知り合いの家に預けられて、そこから通っていたが、3年になったら自分の船から通学していた。彼の船は主に木場に近い仙台堀川、大横川の定まった場所から隅田川に出て、貨車駅のある南千住を往復して積荷を運んでいるようだった。船は船頭が細めの丸太の棹一本で動かす力仕事で、舳先から片方の船べりを足で踏ん張りながら歩き、丸太の先を肩に当てて艫(とも)まで押して船を進めるのである。艫に達すると、棹を川底から引き抜いて舳先まで足早に戻り同じ作業を繰り返すのだが、簡単なように見えるが相当の労力と熟練を必要とする。船頭が棹を引き抜いた後からはもくもくと黒い泥が水面に湧き上がってくる。この辺りの川(掘割)は海面と同じ水位だから、潮の干満で水が動くのでそれも頭にいれて船が運行されているようだ。隅田川へ出ればこれらの達磨船を数珠繋ぎにして、機械船が曳航して川を遡航するようだが、潮次第で櫨を使って自力運行することもあると思うが、秋野君に聞いたことはない。

 積荷の具合で船が南千住泊まりのこともあるから、その時は南千住から早朝割引の市電に乗って登校することになる。往復14銭の市電の普通切符は緑だが、秋野君が見せてくれた往復9銭の早朝割引切符は赤枠だった。たまに荷主の都合などで、予定を早めて出航することもあるから、彼が下校して船の繋留場所に戻っても船が見当たらないことがある。二、三心当たりの場所へ行っても船が見つからなければ南千住へ発ったということなのだ。

 このほか彼が遊びに夢中になって帰宅時間が遅れたために出航してしまったこともあった。こんな時、秋野君は我が家に来て「7銭貸してくれ」と言って、市電に乗って南千住まで船を追いかけて行く。船は定まった所に繋留するから心配はないのだ。一度、仙台堀川に停泊している彼の船に行ったことがあったが、船には狭いながらも一家が住む畳敷きの部屋があって、炊事場も物干し場もある。船までは陸から一枚の細い板が渡してあるが、秋野君はたわむ板の上をヒョイヒョイと調子を合わせて渡りきると、振り返って「来いよ」と言った。「うん、いいよまた来るよ」といったが、遠慮したのではなく渡るのが怖かったのだ。だから、正しくは船に行ったのではなく、幼い弟妹が船べりで遊んでいる秋野君の船を河岸から見ただけだった。

 秋野君のあだ名はエチオピア、略してエチョと言った。当時ムッソリーニのイタリアがエチオピアに侵攻していて、角型のメンコの絵柄に戦車で攻撃するイタリア軍に槍で対抗するエチオピア軍というのがあって、色の黒いエチオピアの兵士の顔が、日焼けしてクラスで飛切り色黒で唇の厚い秋野君にそっくりだった。みんなが面白がって「エチョ」「エチョ」といったが、厭な顔もしないで返事をした。お調子者で煽てに乗りやすかったので、グループで悪戯をしても要領よく立ち回ったりしない秋野君が代表して先生に叱られることが多かった。

 その頃の私の住まい周辺の小学生は卒業すると、大雑把にいって七、八割が高等小学校、残りの半分が中学校、あとの半分は奉公に出るか家業の手伝いだった。秋野君は時計屋に奉公に行くと言っていたが、卒業するとそれっきり消息がなかった。それから6年後の3月10日に東京大空襲があって、我々の町は灰燼に帰したので、すべての級友の消息が途絶えてしまい生死さえ不明だった。

 生活が落ち着いて来た頃、小学校卒業後も引き続いて親交のあった唯一の友とクラス会を思い立ち、卒業28年後になって先生を探し出し、刑事が犯人を追う様に苦労して見つけ出した級友合わせて8名で第1回の会合を持った。この集まりに秋野君も顔を見せたが、相変わらず日焼けしていた。今は日本通運に勤めているというので、陸に上がった河童かと思ったら港湾部門にいて船に縁がある仕事だという。やはり蛙の子は蛙だった。卒業して奉公に行った秋野君は、何度か奉公先を替ったようで「俺、王の親父さんの中華そば屋にいたことあるんだ、俺はいつも王をおんぶしていたんだ」と言った。「王ってジャイアンツの王か」と訊くと「そうだよ、あの王だよ」と彼は答えた。日通を定年退職した後、煽てられて退職金を投じて社長になったが間もなく倒産、その後ガードマンをしていたが、酒もタバコもやらず、泊りがけのクラス会でも早寝早起きで70歳過ぎても黒々とした髪だった。老齢化が進みクラス会を50回目で打ち切って5年になるが、名簿の住所に手紙を出しても応答はなく、以前からそうだったが彼の方からも連絡がないので、独り暮らしの秋野君は再び行方知れずになってしまった。日本シリーズで鎬を削っている王監督を知らない人はいないだろうが、その人の子守りをした秋野君の消息を知っている人はもう誰もいないのだろうか。

(秋野は仮名) (シリーズ第1戦の平成15年10月18日記)