Nostalgia op.3
○○○ Nostalgia 3 ○○○
ノスタルジアが本になりました
凧揚げ op.160 (H23/12/1)
田んぼの中を数十メートル間隔で真っ直ぐに伸びる電柱の高圧線が凧揚げで唯一気を付けないといけない物で、駄菓子屋で何十円かで買ってきた奴凧にしっぽを付けて、しっぽは紙テープは高級品で、我々はだいたいいつでも新聞紙を細長く切ったしっぽで、しっぽを凧に付ける糊にはご飯粒をつぶした糊を使ったのでした。糸はなるべく軽いのを使うと凧が楽に揚がり、我々が行き着いた究極の糸がミシン糸だったのでした。ミシン糸は細くて軽くて結構強く、丸い芯の中心の穴に棒を刺すと恰好の糸巻きも兼ねたのでした。どこまで高く揚げられるかが凧揚げの醍醐味で、ミシン糸を最後まで使うと200メートルも揚がり、凧は空を飛ぶカラスやトンビと同じ大きさにまで小さくなって、まるで自分が空を飛んでるような気分になったのでした。ある時凧が山の稜線にまで届いた時に強風で糸が切れ、凧はそのまま稜線の向こう側に姿を消し、まるで自分の魂の糸が切れて飛んで行ってしまったような恐い錯覚さえ覚えたのでした。
神様でも、仏様でも、何様でも op.159 (H23/11/21)
何がいやと言っても注射ほど恐くていやなものはなく、保育園の予防注射も、小学校に上がってからの予防注射も、それはそれは恐くていやなことだったのでした。日本の土着信仰が長い歴史を経ておおよそ何処の地域でもそうだったように、我が家にも仏壇と神棚があって、加えて祖父は郷里を離れ長野でお坊さんをやっていたのも関係したらしく、注射の時には大泣きで、「神様でも仏様でも何様でもかまわないので助けてください」と満身の力をこめた注射への抵抗と共に、心の中では一心にそう唱えていたのでした。キリスト様は仏様でも神様でもないことは気づいていたので、この窮地を救ってくださるのならば、神様でも仏様でも、それからキリスト様その他お仲間の何様でもかまわないので助けてください。と、神や仏やキリストその他の皆様に、涙と鼻水で顔をびっしょりに濡らしながら、一所懸命に救済を至心に願ったのでした。
うなぎ釣り op.158 (H23/11/2)
四万十川本流に行くとうなぎもたくさんいて、真夜中にカンテラで水面を照らしながら浅瀬を歩きうなぎを見つけ、長い取っ手で歯にギザのたくさんあるうなぎバサミで挟み捕る捕り方。何度もハサミをうなぎの体にしっかり跨がせるまでは行くものの、すばしっこいうなぎを挟み捕ったことはついに一度もなかったのでした。一メートルほどの短い竹の竿で投げ釣りのうなぎ釣りはとても楽しく、餌のミミズを針に付け広い川面をめがけ投げ込み、リールは使わないで手でたぐり寄せた糸は手元に掘った水溜まりに絡まないよう上手に落として釣るやり方。うなぎが餌を食うと糸をピンと張ったまま十メートルも横に移動するので、しっかり食いつくまではうなぎの動きに竿を合わせ、しっかり食いついたタイミングを見て釣り上げるのですが、父の餌には良くうなぎが食いつくのに、自分のにはイダばかりで、支流の仁井田川では幻と思ったイダも、四万十川本流ではただの雑魚になってしまったのでした。
川釣り op.157 (H23/10/22)
地元の四万十川支流仁井田川には鮎はいなくて、釣りの獲物はハヤとハヤが卵を持って腹が真っ赤に染まったアカンバイ。川の石をはぐるといるザザムシが最高の餌で、ミミズや畑のキャベツにたくさんいた青虫でも良く釣れたのでした。ドンコやモツゴはご飯粒でも簡単に釣れたけれど、釣りの醍醐味の竿の引きがないので全くつまらない獲物だったのでした。大水で川が泥色に濁ってしまうと何も釣れなくなり、大水が少し引いた後の少し濁りも残っている時が絶好の釣り時で、赤い小さな浮きと錘だけの簡単な仕掛けで、学校が休みの日などは一日じゅう釣りを楽しんだのでした。仁井田川の最高の獲物はイダとフナで、イダなどは素早く泳ぐ数匹の群れはすぐ眼下に見えているのに、ついに一度も釣れたことのない幻の魚だったのでした。大雨の後でまだ少し泥色の夕暮れ間近の川に竿を出していたある時、うなぎが釣れたらいいのにと妄想を膨らませていたら本当にうなぎが釣れてしまって、それまでうなぎを釣ったことがなかったので大慌てになって、針にうなぎをぶら下げたまま大急ぎで家に帰りながら友達や近所のおじさんにも大慌てで見せたのでした。
海釣り op.156 (H23/10/8)
父と数人の釣り仲間達は仕事が休みの日曜は釣りに行くことが多かったので、自分もそんな時は金魚の糞のように父達に付いて釣りに出かけたのでした。どこで何が釣れているかの情報でその日の釣り場が決まり、朝まだ暗いうちに炊きたての熱々のごはんで朝食を済ませ出かけたのでした。釣果はいつでも程々にあって、ハゲと呼ばれたウマズラハギはいつでもどこでも釣れたし、左巻きと呼ばれた石鯛は引きの強さが魅力で、グレと呼ばれたメジナは引きも強く形も綺麗なのでいつでもどこでも一番の獲物だったのでした。場所によってニシキベラやチョウチョウウオといった熱帯魚のように綺麗な魚が釣れることもあり、厄介だったのは餌取りの食べられない小さなクサフグ。物干し竿のように太い竹の竿で夜釣りで釣るウツボは、見た目はグロテスクだけれどタタキにすると驚くほどに美味かったのでした。ある時名前の通りに小さな小島という島で釣っている時に、渡しの船頭が満潮の時間を間違えたらしく、釣り初めて間もなく潮が満ちてきて島が殆ど海中に沈んでしまいそうになったので、我々は釣り竿に手ぬぐいを結んでSOSを発信、無事に漁船に救助されたのでした。またある時は台風の余波で帰りが大波になってしまい、小さな渡しの漁船は大きく波に揺られて、このまま遭難するかと思ったのでした。でも釣りは大概天気の良い日だったので、ぽかぽか陽気の中で黒潮躍る太平洋を眺めながらの釣りはとても気分が良く、特に母が作ってくれた弁当を食べる昼時は正に至福のひとときだったのでした。
アラ肉 op.155 (H23/8/9)
狩猟用の雑種の飼い犬を連れて父が山に入ると、帰りにはいつもキジや山鳥や野ウサギの収穫を肩に背負って戻ってきたのでした。父はナカミゾと呼ばれた田園の中の小川で、包丁を使って獲物を器用にさばき、妹と自分は父の後ろからそれをいつも興味深く眺めていたのでした。父は臓器からも食べられる部位を取り出し、ざっとその場で調理をし、その他のいらない臓器を田んぼに投げ入れると、それをめがけ早速ムクドリなどが群れをなしてやってきたのでした。収穫のあった日の夕食はいつもそれらの煮物で、その中でもアラ肉と呼ばれた骨に付いた肉は最高に美味く、自分はいつもアラ肉専門だったので、いつでも骨専門だと言われ家族に笑われていたのでした。
落とし物 op.154 (H22/4/29)
高校の汽車通学の帰路、一番後ろの席が空いてたので座ろうとしたら分厚く膨れた二つ折の黒い財布が座席の隅に。中を見ると今まで見たことのないお札の束。直前に駅に下りた人の落とし物だろうと思い車掌に事情を話して手渡し。翌朝高校の休み時間に校内放送で呼び出され玄関に行くと見知らぬおばさんがいて、「あのお金を無くしていたら大変なことになるところだった」との涙顔。菓子折を渡され何度も何度も頭を下げられ、あんなに喜んでもらえてよかったと思いながら、この菓子折をどんな顔をして教室に持ち帰ろうか。そんなことを思いながら足早に教室に帰ったのでした。
石槌さん op.153 (H21/7/25)
金比羅さんから険しい山道をさらに登り、木は殆ど生えていない見晴らしの良い傾斜地にあった石造りの小さなほこらの石槌さん。金比羅信仰と並んで熱心な石槌信仰の人によってそこに遷座されたのでしょうが、金比羅さんとは違い石槌さんには女子供は登れない掟があり、それは子供達の間では遠目にも見てもいけない御法度にまで広まっていたのでした。ある時御法度を破り友達と初めてそこに行った時には、好奇心よりはとんでもないことをしてしまったことの不安でいっぱいで、足をこわごわ一歩踏み入れたと同時に、一目散に全速力でその場から逃げ去ったのでした。
金比羅さん op.152 (H21/7/11)
集落から見上げる遠くの山の中腹に在る金比羅さんは、鎮守の杜の言葉そのままの、我々の大切なオアシスだったのでした。年に二度の大祭には、集落の誰もが出かけて行き、それぞれに家族の息災を祈願したのです。金比羅さんの登り口は大川とふかん淵の中間あたりで、参道は勾配がきつく、人一人やっと歩けるだけの細い九十九折れ。雨の後などは赤土が露出し、慣れた者でも滑って転んでしまうほどの難所。息を切り切りやっとお社が見えた時の感激は強烈に新鮮で、到着の達成感とお社の大清浄観は、言葉に出来ないほどにありがたいものでした。苔蒸した境内の木々の間から遠目に自分達の集落を見下ろした景色は、これも言葉にならないほど大切でありがたいものだったのでした。
豆腐とこんにゃく op.151 (H21/6/13)
白くて四角い豆腐、ネズミ色の長方形のこんにゃくと、改めて頭の中で確認し豆腐を買いに行かされた自分は、数百メートル先の店までの道すがら「豆腐、豆腐、豆腐、豆腐」と何度も繰り返し呪文のように唱えながら、途中で友達と会って話しをした後は頭の中は真っ白で、どっちだったかわからなくなり結局こんにゃくを買って帰ってしまったり、時にはその逆のケースも二度三度とあったのでした。そんなふうに豆腐とこんにゃくは似た者同士の混乱する食材だったのですが、伯母が子供の頃に豆腐を買いに行かされて、腹が空いていたので帰り際に全部食べてしまった話を聞いた時、やはり血は争えないと妙な納得をしたのでした。
博多人形 op.150 (H21/4/25)
年に一度か二度の帰省の時に祖父の持ってくるおみやげがとても楽しみで、ある時は電車のおもちゃ、これは10年以上も大切に使い、ある時は茶色の皮のジャンバー、これは冬中毎日着て学校に行ったのでした。博多人形の時は三人の従兄弟の抽選となり、私は幼児が猫のしっぽをつかまえて遊ぶ姿の人形が当選。その後ちょっかいを出して万年筆で顔に落書きをしたらインクがとれなくなり、祖父に見つかると一大事、それからしばらくは祖父の帰省の話を聞くとそのことばかりが気になって仕方がなかったのでした。
曾祖父の菓子 op.149 (H21/3/20)
曾祖父は我が家から歩いて五分の広い道沿いの場所に小さな家を構えて住んでいました。手先が器用で、ワイシャツなどは手作りをした曾祖父も、私が物心ついた頃にはもうすっかり寝たきりになっていたのでした。毎日の新聞を曾祖父に届けるのは私の役目で、時々白いざらざらの砂糖菓子を駄賃にもらうものの、あまりにも甘すぎて一度も食べきれなく、申し訳ない気分のまま、いつも柿の木の根本あたりに捨ててきたのでした。
山栗の木 op.148 (H20/11/29)
裏山の入口の小さな谷に掛かる手造りの粗末な橋を渡って竹藪の林を抜けた辺りに山栗の大きな古木があって、収穫の時季には家族で採りに出かけたのです。木は背が高く、おまけに古い木なので登ることは出来ず、竹竿を振り回して実を落とすとたくさんの毛虫も一緒に落ちてきて、恐い思いも何度もしたのでした。栗のいがを鎌で剥いで実を取り出す作業は結構手間もかかり、おまけに二度三度つまずいて、いがの上に両手を突いて前向きに倒れた時の痛さは半端ではなく、泣きっ面に蜂ならぬ、泣きっ面にいがの状態だったのでした。それでも山栗は小粒ながらも味はとても良く、毎年の収穫はとても楽しみだったのでした。
事故の場所 op.147 (H20/10/18)
大人の男の泣き叫ぶ声と、大勢の人達の慌てふためいた様子は、そこで起きたことがただならぬ事の証明で、それが友達の母親が居眠りの大型トラックに飛ばされ、ほぼ即死でいることが解るには時間がかからなかったわけで。国道のその場所に集まった人々の異様な光景を遠目に見ながら、悲しさよりは強烈な怖さがこみ上げてきて、そこに行くことは決してできず、駆けつけた医者の「駄目だ」の低い声を聞いた後、走って家に戻ったものの、それから何日もそのことが頭から離れず、そこを通る時はいつまでも怖さがよみがえったのです。
花火大会 op.146 (H20/9/6)
保育園と隣接の小学校の校庭で開かれた花火大会は、自分が初めて見た本格的な花火で、爆音と共に次々と大輪を開く色とりどりの火は恐怖以外の何物でもなく、空から舞い落ちる火の粉と、腹の底に突き刺さる爆音を逃れるため、誰もいない夜の保育園の真っ暗な自分の教室に一人潜り込み、息の止まる思いで時の過ぎ去るのをじっと待ったのでした。随分長く感じた恐怖の時間の後に訪れた花火の終わった後の無音の静寂は、やっとここにも平和が戻ったと思うほどに、強烈に自分の中に穏やかな時を染み込ませてきたのでした。
きび op.145 (H20/8/23)
小石の多い痩せた畑にもかかわらず、キャベツやほうれん草などの青菜は年間を通して採れ、夏は味や形は落ちるけれども、たくさんの西瓜も収穫され、茄子やキュウリやトマトと一緒に、庭の池に浮かんで冷やされているのでした。とうもろこしは「きび」と呼ばれ、茶色く長いひげを付けた実の収穫は待ちに待った瞬間で、かまどの大釜で茹だったたくさんのきびは、ざるに一度にあけられて、手をつけられないほどの熱々を、縁側に坐って満腹になるまで毎日食べたのでした。
神様とんぼ op.144 (H20/7/26)
庭の門を出て左に坂道を上って、谷に架かる橋を右に折れた細い竹の群生する陽の当たらない場所は神様とんぼの群生地で、針のように細い体とは対照的な大きめの羽根を持った、黒一色の独特なその姿はまさに神秘的で、我々は他のとんぼは捕まえても、決して神様に手を出すことはなかったのでした。日陰を好む習性なのか、他の場所では見ることは少なく、仮に見つけても我々は手を出すことはなく、いつも通りの神秘的な姿に惹きこまれるのでした。
大工道具 op.143 (H20/7/21)
ちょっとした物なら器用に手作りする自分に、祖父が買ってきたのが大工道具のセット。ノコギリやカンナ、キリ、ノミなどを整然と収めたそれは、自分の制作意欲を益々沸かせたのです。最初に手がけた飯台は、材料はあり合わせの廃材。天板は廃材ベニアの寄せ集め。釘は頭打ちにして綺麗に仕上げ、飯台はさっそく夕飯から使用。みんなが一様にほめるものの材料が廃材なだけに見た目の限界があり、ご飯を食べててもそればかりが気になってしまったのです。
はつかねずみ op.142 (H20/7/5)
動物好きな自分に祖父が買ってきたはつかねずみは、丸い小さな籠の中で、二匹がいつも車輪の前進運動をしているものでした。カラカラカラカラと音を立て車輪を回す姿は見ていて飽きず、小学校に持っていってもみんなの注目の的だったのでした。そのうちに車輪を回すのみの姿が可愛そうになり、木の箱に藁を敷き詰め巣箱をこしらえたのですが、巣を作り始めると興味深くていつも自分がいじってしまうものだから、結局子供が生まれることはなかったのです。餌はレタスのような青菜で、めんどくさがって餌やりを忘れてしまうと、ねずみの尾は先から黒く変色してくるのですが、また餌を食べ始めるとその部分は復活して、元気を取り戻すのでした。
駒鳥の中華そば op.141 (H20/6/19)
歯医者は治療室と待合室が六畳ほどの一間にあって治療台も一台しかない所と、おばさんの女医のやってる所との二ヵ所があって、おばさんの方は治療室も待合室も別で広くてよかったのですが混むことがあり待ち時間が長く、でも二ヵ所を比べると圧倒的におばさんの所の方が良く、時々そこに通ったのでした。歯医者の時の楽しみがひとつあって、帰りに寄った中華の駒鳥。六畳もない程の狭い店にテーブルが二つ。メニューは中華そばの大小のみ。独特な素朴な、でも一度食べたら終生忘れられないほどの美味いそばで、歯を治療したことはすっかり忘れるほどに熱中して食べたのでした。
母の日 op.140 (H20/5/20)
カーネーションやしゃれた物など贈ることができなかったので、前に母からもらった使い古しの万年筆を、小さな菓子箱に綿をいっぱい敷き詰めてその中に入れ、いつもありがとうと言葉を沿えて渡した時の母の驚いた顔。母の日を迎えると思い出すあの時の母の日。
池掃除 op.139 (H20/5/10)
きれい好きな父は庭の池の汚れがいつも気になったようで、天気の良い日曜には我々も駆り出されての池掃除なのでした。池には父が趣味で飼っていた大きな鯉がたくさんいたので、掃除の前にはそれを網で掬いタライに移すのがまず厄介な仕事で、鱗を傷つけないようにそっと掬っても、跳ねて水しぶきをたくさんかけられたりもしたのです。鯉を全部掬い出したら水はポンプで払い出し、池の底や側面にこびりついた苔や汚れをすっかり落とし、仕上げには雑巾を使いすっかり汚れを拭き取って、まさに池は新品状態。水は谷から引いた水だから池一面に溜まるのには数時間もかかり、頃合いをみて鯉を池に返して作業は終了。今思えばあれほど頻繁にすみかを綺麗にされたのでは、鯉にとってはきっとありがたい迷惑だったのでしょう。
高祖父のこと op.138 (H20/4/12)
出雲大社の神官を勤めたという高祖父のことは、祖父より聞かされたいくつかの逸話からしかその人を伺うことが出来ないのですが、その中でも、祖父が子供の頃に高祖父の寝てる部屋をそっと覗くと、布団に横たわったまま空中に浮かんでいた話は、自分の中に強烈な印象で残り、古くから家にあった二尺四方の頑丈な書庫には、神官の折に書いたという筆書のお札の下書きもあったりで、益々不思議な印象は深まるばかりなのでした。
高祖父の墓 op.137 (H20/3/22)
集落の西側の日当たりの良い山の中腹にある共同墓所は、まるで棚田のような造りで、その段毎の広い一画がそれぞれの家の墓地で、当家の墓地にも、風化し文字の読めなくなった小さな墓をはじめ、たくさんの墓が行儀良く二列に並んでいたのでした。一基ごとの刻まれた文字を読もうとしても、知らない昔の年号も多く、全部の墓の文字を読み切ることは結局できなかったのでした。春と秋の彼岸には、山から鈴竹と呼ばれた細い竹を何本か切り出し、水が漏れないように節を下に手頃な長さに切って、一基ごとの正面に二本ずつを差し、そこにしきびという木の枝と水とを挿して供花としたのでした。一番大きくりっぱだったのが高祖父の墓で、かつて出雲で神官を勤めたという逸話などを、墓地に行くたびに思い出していたのでした。
宮相撲 op.136 (H20/2/21)
正月や神祭(じんさい)と呼ばれた氏神様の年二回の祭の時などには、集落の広場にしつらえたにわか土俵での宮相撲があり、我々の目的はそこで勝つことではなくて、相撲を取った後にもらう駄賃の小銭が目当てであり楽しみであったのです。祖父の子供の頃の話にもこの宮相撲はよく出てきたので、相当昔からの行事として地元に根付いていたのでしょうが、祖父が一度も勝ったことがなかったとよく話したのと同じく、自分も身体が小さく力が弱かったので、一度も勝ったことがなかったのでした。ある時のその宮相撲が自分の記憶では最後の宮相撲で、幼なじみの年上で力の強いその人と、はっけよいとがっぷり四つに取り組んだ所で行事ストップが入り、最後まで戦わずにして手にしたその日の駄賃は、いつも以上にとても嬉しかったのでした。
足踏み杵 op.135 (H19/12/24)
十二月のこの時期は、障子の張り替えや大掃除で正月を迎える準備を整え、最後の仕事として楽しみだった餅つきがあったのです。年に一度だけ使われる杵は、五メートルもあったかと思われる柱大の木の先に杵が付いた足踏み式で、支柱の台に乗せ、人が乗って踏む式の大杵だったのです。踏み手と臼までの距離があったので、合いの手を入れるタイミングも難しかったろうと思うのですが、ついた餅は伸びて柔らかく、祖母と母の手により丸いあん餅の出来る様子も楽しかったのです。餅つきの日は早朝よりかまどで蒸籠(せいろ)蒸しした餅米の匂いも香ばしく、蒸したてをもらって味わうのも楽しみだったのです。
さきいか弁当 op.134 (H19/12/14)
薄い長方形をした薩摩揚げに似たてんぷらは、そのままでも美味く食べられるし、賞味期限が過ぎてしまったような物でも、火で軽くあぶると香ばしくて、毎日の弁当のおかずとしては、当時の小学生の間では定番になっていた物のひとつでした。からし味のぴりっときいたからし昆布も定番のひとつで、でもこれでお茶漬けをしてしまうと弁当箱じゅうが真っ黒になり、見た目すごくグロテスクだったのでした。赤いでんぷんは甘くて美味かったのですが、弁当の中のごはんに直接乗せられていた時は、ご飯の水分を吸ってしまい、ぶにょぶにょの妙な甘さのでんぷんになってしまい閉口したのです。我が家の母は私がさきいか好きだったのをよいことに、さきいかをごはんのおかずにすることがあり、さきいかが袋に入ったまま弁当箱の上に乗ってるさまは、可笑しくいつも笑ってしまい、でもさきいかは噛むほどに味わい深く、冷たいごはんとの不思議な相性は、とても微妙な味わい深さだったのでした。
祖母の裁縫ばさみ op.133 (H19/11/3)
離れの戸を開けて急な階段を昇った場所の、磨き込んで黒光りした板の間の横には、季節になると紐で対に吊した柿のたくさん並ぶ窓辺があり、その奥の日当たりの良い一室が祖母の部屋になっていたのでした。縫い物をよくした祖母はそこで反物を拡げて針仕事にいそしむことがよくあり、そのお針箱の中の指当てなどは、子供の自分にとってすごく興味深い物だったのでした。祖母のいない時に、その中のひときわ存在感のあった大きなりっぱな裁縫ばさみを手にした自分は、祖母が常に言った「手が切れるほどに危ないから、絶対にこれで遊んではいけない」の言葉を思い出しながら、手が切れるはずがないと思いつつ、刃先を左手の中指の先に当て、軽く握ってみた瞬間、あっと思う間もない程に、切れた指先から真っ赤な血が流れ続けたのでした。そしてやっと傷が治ってからもしばらくの間は、ハサミの怖さと共に、「してはならない」の祖母の声が、何度も何度も繰り返し聞こえていたような気がしたのでした。
ビール瓶の蓋 op.132 (H19/10/24)
我々数人の孫を下座(げざ)と呼ばれた土間のある居間に呼んだ祖父は、「これからおじいちゃんがこのビール瓶の蓋を手の中に消してみせるから、ようく見ていなさい」と言って、手に蓋をはさんだまま合掌をしてしばらくの間、恐いほどにまで真剣な表情で、何かの真言を唱えながらの数分後、「ほら消えた」と言って笑顔で見せた手からは蓋が無くなってしまっていたので、我々はてっきり手品でどこかに隠したものだと思い、座布団をはぐってみたりしながら蓋の行方を捜しまわったのでした。「空無の法」とか「色即是空」などという言葉すらまだ知らなかった子供だったので、あの蓋がどこに行ってしまったのか、それからしばらくは謎のままだったのでした。
死に水 op.131 (H19/9/21)
物心ついた頃にはもう寝たきりとなっていた父方の曾祖父が亡くなったのは、私が小学校に上がる前の年のことで、家の表座敷の床の間に沿って敷かれた布団に横たわった亡骸は、初めて目の当たりにした人の死んだ姿だったのでした。葬式の日を迎えるまでの数日は、大勢の弔問があり、人達は曾祖父の枕辺に置かれた皿の中の、脱脂綿のような物を何かに軽く浸しては、曾祖父の口元を濡らす動作を繰り返したのでした。死体となった曾祖父が恐く気味が悪い感覚は自分の中にはなく、ただ人がそうやって繰り返すことの正体を知りたく、座敷に家人も弔問人もいない時をねらって、曾祖父の枕辺のその白い物を自分の口に当ててみた瞬間に、それが死に水の儀式だとわかってからは、以来しばらくの間、自分の唇を舐めることができなかったのでした。
餅投げ op.130 (H19/9/1)
家の新築や増築の祝いには、餅投げをするのが習わしで、そんな時にはそのことが数ヶ月も前から噂となり広がったのでした。餅投げの時にはそれぞれが、風呂敷や大きな袋を持って集まり、餅の他に菓子や紙にくるんだ小銭なども投げられたので、子供にとってもそれは一大事の楽しみだったのでした。ある時、我が家のすぐ上のお宅のはなれが新築になった時の餅投げでは、四方固めといって、瓦屋根の上から東西南北の四方にまず大きな餅を一個ずつ落とすタイミングに初めてうまく出会い、その餅の中の花形の大物を、まさに胸中にしようとした瞬間、近所で食堂と食品店を営むおばさんにさっと横取りをされ、悔しい想いと同時に、大人のたくましさをまざまざと見せつけられたのでした。
蚊帳 op.129 (H19/7/21)
梅雨から夏の蚊の多い時季には、夜寝る時には蚊帳を吊ることが普通で、薄茶の麻地の蚊帳の四方を、梁にしつらえた引っかけ棒に結び紐で吊るのですが、うまく吊らないと寝てる最中に落下することがあり、そうすると落ちた蚊帳にからまって幽霊の真似をしておどけて遊んだりもしたのでした。蚊帳に入る時には隙間を作らないようにさっと潜り込まないと、蚊まで一緒に蚊帳に入ってしまい、時々失敗した時に、蚊帳の中で蚊を退治するのは不思議なほどに大変だったのでした。また古くなった蚊帳の破れた場所は、すぐに蚊の進入経路になってしまうので、すかさずそこを縫って穴をふさぐのは、夜の安眠につながる大切な作業だったのでした。
ぱん op.128 (H19/7/7)
メンコのことを郷里(高知)では当時「ぱん」と呼び、地面にぶつけた時の音から来た呼び名だったのでしょうが、駄菓子屋にはB4程度の厚紙に、漫画のキャラクターやプロ野球選手の印刷されたぱんの原紙が何種類もあって、一枚十円とか、少し凝った物なら20円とかを買ってきて、はさみで一枚ずつ切り分け、宝物の菓子箱のぱん入れにぎっしりと詰め込み決戦の場へと向かったのでした。ぱんの遊び方に二種類あって、地面をそのままに戦いの場とするもの。もうひとつが手頃な大きさの箱などの底を使って戦いの場とするもの。勝つ方法に三種類あって、パン!と打った勢いで、他者のぱんをひっくり返すもの。エッジを打って、戦場から外に出してしまうもの。スクイと言ってぱんの下に自分のぱんを潜り込ませてしまうもの。このフェアな方法と共にあったのがアンフェアないかさまで、中でも手羽(テバ)は、他者に気づかれぬようぱんを打つ瞬間に手を使うのですが、うまくやらないとまともに地面を叩き指を腫らせることもあり、そんな時、いかにも痛くないふりをするのもまたその裏技だったのでした。
ゼロの数字 op.127 (H19/6/30)
小学一年の時に算数がわからなかったのは、1から順に数を数え上げる時に、7、8、9とここまでは数えられるものの、その次にどうして何もない数の表現である0(ゼロ)が1にくっついて10という数字になるのか理解が出来ず、9の次は11、12、13で良いのではないかという疑問がずっと頭から離れないものだから、9以上の数を数えることができなかったのでした。9の次に0という数字の存在する10が来るのであれば、どうして数の数え始めが0ではなくて、1、2、3...であるのかの疑問が、ある時にふと、9の次には1と0の10の世界が存在するのだと解った時には嬉しくて、つまり数は0の存在によって、無限に拡がるのだと解ると、世の中が急に広くなった気がして、とても嬉しかったのでした。
SL op.126 (H19/4/30)
当時の土讃線では午前中に一本だけまだSLが走っていて、駅のすぐ手前の長いトンネルを抜けた汽車は、白い蒸気と共にホームに流れ込んで来たのでした。SLに乗ると顔も手も洋服も煤けてしまうので、たまたまその一本に乗り合わせた時には嫌な気分にもなったのですが、でも蒸気を吐きながら力強く回転する大きな鉄の車輪を持った勇姿は、男らしい逞しさや、力強さ、そして激しさも感じさせてくれたのでした。駅から次の駅に向かう途中の鉄橋にさしかかる手前では、いつも汽笛を鳴らすので、暖かな時季に窓を開けっ放しの時には、鳴るのがわかっているにもかかわらず、その大音響に必ず驚いてしまったのでした。またSLの座席は木製で堅く、背もたれが直角なので、座ると姿勢が良すぎて身体がリラックスできなかったのでした。その後いつの間にかその一本もジーゼル車両に変わってしまい、やがて懐かしさを感じさせる存在にもなったのでした。
蔵 op.125 (H19/4/21)
金属の感触の冷たい丸い大きな米びつが、重い扉を開けたすぐの場所に置かれた蔵の中は、真っ暗で空気の抜ける隙間がないので、いつも米の匂いが充満していたのでした。扉の鍵穴から唯一差し込む光りでやがて目が慣れてくると、中の様子も掴めるようにはなるものの、親の言う事を聞かないで、罰として入れられた蔵の中は、地獄とも思うほどの恐怖の場所だったのでした。声の限りに出してくれと叫び続けても、二時間や三時間はざらで、長い時には半日も置き去りにされたこともあったのでした。恐くて寂しくて悲しくつらい時を過ごした子供は、開かれた明るい外界に一歩を出された時は、軽い目眩と同時に、金輪際ここに入れられぬよう、親の言うことには全てに従おうとするものの、時を経るとまた同じ過ちを繰り返してしまうのでした。でも、ありがたいと思ったこともなかった外の明るさに対しては、こんなにもありがたいことだったんだと、強く肝に銘じたのでした。
オートバイ4 op.124 (H19/4/13)
無免許運転での検挙のことがあったにもかかわらず、国道や県道でなければ免許を持っていなくても乗って大丈夫だとの父の話を鵜呑みにし、その後も狭い農道や、山への小道を懲りもせずによく乗り回していたのです。そんなある日、やはり裏道を通り小学校の向かいの貯木場の辺りまで行った時に、どうしてもそこを通らなければならない場所がちょうど工事中で、何メートルもの幅の大きな穴になっていて、穴には人が歩けるようにと足場と幅の狭い長い板が架けられてあったので、立ち止まり考えた挙げ句、この板ならば乗ったまま渡れると確信し、サーカスの人の気分で板に乗り上げた瞬間、バランスを崩してオートバイごと穴に転落。怪我はなかったものの穴の中から抜け出す手段を失い困っていたら、近所でユンボーを使っていた顔見知りのおじさんが、昼間なのにもかかわらず赤い顔してやってきて、無言のままにオートバイを引き上げてくれ、一件何とか無事落着。おじさんにありがとうと礼を言い、もうこりごりだと思いながら、穴から自力で抜け出すことのできなかった非力さと、おじさんの優しさを思いながら、金輪際オートバイはもう乗らないと心に誓ったのでした。
オートバイ3 op.123 (H19/3/31)
高校二年の春、友達のオートバイを借りて、無免許で乗った時のこと。国道を走っていたらバックミラーに映ったのが数台のパトカーと白バイの隊列。怖じ気づき、その場に止まった自分の横に一台の白バイが。「止まる時はウインカーを出さないといけないよ」の言葉に反応した自分を不審に感じた警官は、「免許証みせて」、「持ってません」のやりとりのあと、パトカー後部座席の人となった自分。警察署で調書を書く間に呼び出しをされた父がやがて到着。「人生にはいろいろあるから。」父のその時の言葉が、妙に印象深く残ったのでした。後日、家裁の調停で、同罪の十人程と一緒に裁判官の話をしばし聞いて、その後無事にお開き。「オートバイを運転することと、運転出来ることはどこが違うか」の裁判官の質問に対して、唯一答えた自分の回答を聞いた父の、傍聴席から聞こえた吹き出す声が、また妙に印象的だったのでした。
オートバイ2 op.122 (H19/3/20)
小学校へは片道一㎞の徒歩通学で、途中のお宮までの寂しい場所を通り過ぎると、少しだけ賑やかな家並みになって、道の両側には製材所もあり、一所懸命に働くそこの人達を見ながら、朝も夕も鞄を背負ってそこを通りすぎたのでした。製材所の事務所の中には大きな掛け時計があって、それを覗き込んで時間を確かめながら、今日は余裕だ、今日は急がなきゃ、などと思いながら、毎朝学校に向かったのでした。製材所の社長はコルトの自家用車を持っていて、事務所の横の歩道にいつも停めてあったので、我々はハンドルの付いた運転席を、羨望の眼差しで見つめながら毎日通りすぎたのでした。ある日そうやって車を見ながらいつものように学校に向かった瞬間、黒いオートバイが目の前に急に現れて、あっという間に自分の右足の甲の上をタイヤが走り、一瞬のことだったから助かったのか、骨折も打ち身も何にもなくて、でも次の日からはそこを通りすぎる時には、事故に遭った経験上、自然と早足で通りすぎるようになってしまったのでした。
オートバイ1 op.121 (H19/3/9)
国道はまだ砂利の道で、大きな黒いオートバイの荷台にまたがった自分は、父の背を感じながら手でしっかりと身体を固定して、10㎞も離れた父の職場までのツーリングの途中、緩い登りの大きなカーブで砂利道にハンドルを取られたバイクは無様にも横転。振り落とされた自分は驚いて、とっさに癇癪泣きをしたものだから、その声に驚いた近所の人が大勢飛び出してきて、ひざを擦りむいた程度の怪我なのに、たくさんの注目にあってしまったものだから、その間の悪さにも困ってしまい、何故だか、少し前に父が自分に言った、「おまえも大きくなったら電信柱に登って、電線を張る仕事をするか。」の言葉が、頭の中を行ったり来たりしたのでした。
拝み屋 op.120 (H19/2/16)
年に一度か二度、その旅人風情の男と女は、頼むわけでもないのに我が家にもやってきて、庭先に立ったままで、神妙で悲しそうな顔つきのまま、奥の座敷の方に向かって、突然に拝みを始めるのでした。仏壇のある座敷の、庭に面した障子戸を開けてしまうと、その行為に対する承諾となり、希望されるなにがしかの謝礼を出すようになっていたらしく、子供心にも、我が家にとっては歓迎されぬ人とわかり、来るたびにいやな気分になってしまったのでした。拝み屋と言ったのかは知りませんが、頼みもしないのにどうして拝みに来るのか、その疑問が青白き顔の印象と共に、しばらくの間残ったのでした。
納豆 op.119 (H19/1/27)
今から三十数年前、活禅寺の夏安居大接心に従兄弟と一緒に初めて来た中学一年の夏。当時郷里の高知ではまだ納豆を食べる習慣がなく、接心の食事で初めて見た異様な豆。「これは何?」と、不思議な豆の怪しい正体のわからぬまま、我々は他の大人や子供がしてるのを真似て、まずは醤油をかけ、箸で力任せに掻き混ぜ、予想外の強烈な匂いに舌を巻きながら、更に見よう見まねで、どんぶりのご飯にそれを乗せ、更に掻き混ぜ、またもや放たれる強烈な異様な匂いと戦いながら、これが噂に聞いた納豆かとやっとそれを確認した次第。ご飯に掻き混ぜた以上食べない訳にはいかず、強烈な匂いと糸を引く粘りけに閉口しながら、食べたのか、呑み込んだのかわからないまま、これもお行だと頑張り何とか全部を食べたものの、次からは絶対に手を出してはいけないと教訓した納豆との最初の出会い。
山芋 op.118 (H18/11/11)
縦に伸びた黄金色の蔓を見つけるのが、山芋掘りの最初の作業で、近所に住む歳上の兄ちゃんたちは、プロの眼力を持ってるものだから、さっと大きな蔓を見つけるのですが、自分は見つけるのが下手だから、人に探してもらった蔓を目当てに山芋を掘ったのでした。上手な人は芋を傷つけないように、途中で折ってしまわないように、根っこの最後の部分まで綺麗に掘りあげるのですが、自分は途中まで掘り進むと、気持ちがどんどん高まってきて、ついつい力が入ってしまうので、結局一度も完璧に芋を掘り起こしたことがなかったのでした。ある日、収穫のまったく無かった時に、兄ちゃんの一人が大根下ろしを使って下ろしてくれた山芋に醤油をかけて食べたのですが、そのどろどろの土色の芋は、見た目そのままで、土の味がしたのでした。
駄菓子屋の秘密 op.117 (H18/11/4)
当たりのシールの入ったチューインガムは、三段重ねの数十個入った箱の一番奥の最下段にある確率が高くて、これは自分の経験から発見したことで、おそらくは駄菓子屋のおばさんも知らないことだったのでしょう。表紙のビニールをはぎ取ったばかりの新品のチューインガムの箱の奥の最下段からその目的の一個を取り出して買い、当たりの紙を郵送してはその景品を心待ちにしたのでした。金と銀の当たりのくちばしを持ったチョコボールも、やはり箱の一番奥にあることが多く、銀のくちばしを五枚集めたり、金のくちばし一枚で景品のおもちゃの缶詰も何度かゲットしたのでした。思いがけない収穫のあったのは板チョコを買った時で、その駄菓子屋の板チョコは長い間売れなかったらしく、開けてみると白い粉が吹いていたので欠陥品かと思い、製造会社に送ってみると、数日後にはそれと同じ板チョコがびっしりと詰まった大きな箱が送られてきて、それに意を得た自分は、それからしばらくは駄菓子屋では、賞味期限の切れたらしきチョコのみを、あえて買うようになってしまっていたのでした。
かえる釣り op.116 (H18/10/7)
稲刈りの終わったばかりの田んぼでは、居場所を失ったカエルが所在なさげに跳ね回り、子供達は田んぼに残った稲穂を拾って、先に一粒のみを残すように余分な米を手でほぐし、それをカエルの目の前にぶらさげて、あたかも虫が飛んでるようにみせかけて、カエルが食らいつくとそのまま釣り上げるのですが、針のついていない釣りなので、カエルは必ず空中で落ちてしまい、それを一度味わったカエルは、なかなか二度とは食らいつかなかったのでした。誰が先に言い出したのかは知らないけれど、カエルは度近眼なので、米粒を虫と勘違いして食らいつくのだと。でもカエルが本当に度近眼なのかは、本当は謎のままだったのでした。
盆踊り op.115 (H18/8/26)
その日の夕刻の駅前の広場には、浴衣などの思い思いの支度の地元の沢山の人が集まり、優雅でしかも賑やかな音楽に合わせて、盆の踊りを繰り広げたのでした。普段は普通に見かけるたくさんの大人達は、その日は別人のように輝いて見え、思えば先祖につながる共通の催しだったからこそ、子供心には大人の純な部分が、誰をもいつもよりも輝いて見えたのでしょう。印象的だったのが保育園の女園長先生で、クリスマスにはサンタになってみんなを喜ばせてくれるような、とても楽しい人だったのですが、その日はおさげのカツラをつけて、女学生に扮しての愉快な盆踊りだったのでした。
サーカス op.114 (H18/7/22)
家並みからは随分と離れた、シーズンオフの広い田圃に、サーカスのその白く大きなテントは張られ、あたりには運動会のような賑やかな曲がスピーカーから流れ、学校からもらった割引券と、少しばかりの小遣いの入った財布とを、しっかりとズボンのポケットに確認しながら、従兄弟と、そのおじいちゃんに連れられて、いよいよまだ見ぬ世界の、そのテントの入り口にたどり着いたその時、あまりにもの緊張のせいか、道中何度もポケットに確認をとり、汗ばんだ手で強く握りしめていた割引券がどこかに行って見あたらず、泣きそうになりながらも勇気を出して、従兄弟のおじいちゃんにそれを話したら、「わかった、入場券はおじいちゃんが買うちゃお」と言われた時は、極度の緊張感から、体の力がすうーっと抜けたのです。空中ブランコやライオンの火抜け、ピエロのおどけた一挙手一投足も、全てが珍しく真新しく、サーカスを見ている間はまた違った緊張で、手にはずっと汗を握ったのでした。