Nostalgia op.2
○○○ Nostalgia 2 ○○○
しじみ op.113 (H18/7/1)
田植えの前の田役(たやく)とよばれた作業は、田に水を入れる中溝(なかみぞ)などの数日間に渡る毎年恒例の補修作業で、農家の男や女は、その間は日なが鍬での赤土作業に追われたのでした。子供達にとっては水のなくなった川に無数に現れる小魚などを捕まえて遊ぶ恰好の時期だったのですが、川底の土を棒きれなどで少し掘ると、しじみのたくさん採れる場所もあり、我々は小一時間もその場所でしじみ採りをしては家に持ち帰り、真水につけて泥を吐かせ、翌朝そのしじみ達はみそ汁の具となり登場したのでした。
ほうずき op.112 (H18/6/24)
赤く熟れたほうずきは、袋を四枚に開いて、実を軟らかくなるまでほぐし。ほぐし具合は微妙で難しく、強いと皮が破けるし、充分でないと巧く種が抜けないし。指先で丁寧にほぐしたあとは、へたを持ってへた穴から一気に中身の種を抜き出して。へた穴も破けず、巧く丸い皮だけになったら、口に含んで膨らまし、空気の加減で音を出し。でも音はなかなか巧くは鳴らなくて、一番上手に出来たのは、皺くちゃの柔らかな手でこれをこしらえた祖母だったのでした。
鯉のぼり op.111 (H18/5/27)
田植えの終わった田のあぜ道などに、頑丈な木の杭が何本か打たれ、その一本には吹き流しから順に、大きな父さん鯉、やさしい色合いの母さん鯉、そして一番下には青く小さな子供鯉が、五月の風を受けながら気持ちよさげに泳ぎ、他の杭には勇敢な武将や金太郎絵柄の大漁旗如きフラフと呼ばれる大きな旗が何本もはためき、あとの数本には青空を突き抜けるが如き勢いの幟(のぼり)がそびえ立ち、家々では各戸の男児の健やかなる成長を願い祝ったのでした。でも自分の場合はそうやって祝ってもらった頃の記憶は既になく、つまりはそういった祝い事は、物心つく前までの行事であったようで、少し大きくなり物心ついた後には、鯉のぼりは年中タンスにしまわれたままになっていたので、毎年時期になると、竹製の古い物干し竿を持ち出しては、鯉を結びつけては庭に掲げ、でも風が当たらず鯉は泳がず。そんな可笑しな鯉のぼりの記憶なのです。
きもだめし op.110 (H18/5/13)
戦死墓と呼ばれた背の高い大きな墓石が三基並んだ墓地が、まだ舗装前だった国道沿いにあって、歳上の子供達に混じった我々も、二人か三人の組を作って、真っ暗な深夜にその戦死墓に蒸し付いた苔を取ってくるというきもだめしに挑戦させられたのでした。まだ外灯などは数えるほどしかない時代で、夜ともなると車もそうたくさんは走ってこないものだから、辺りは本当に真っ暗闇で、おまけに場所が墓ときてるものだから、最高に薄気味悪く、我々は、少なくも自分は、今にも泣きだしそうになりながら、それでも必死の勇気をだして、歳上の人達に訴えたのでした。「恐いから絶対にいやだ」と。そして、あの人たちは本当に勇気があると敬服したのでした。
水路橋 op.109 (H18/4/29)
とめどの下のその小さな水路橋は、側溝の深いU字型をした荒いセメント造りだったのですが、造られてからはもう相当に長い時間が経っていたらしく、色は自然石のように薄黒く変色し、陽の当たらない裏側にはたくさんの苔もついていたのでした。水路橋と言っても大雨などにならないかぎりは、そこには水は流れていなく、セメント造りのその橋は、天気の良い日には焼けてポカポカと温かいものだから、我々はそこに寝そべったりしながら、のんびりと時間を過ごしたのでした。でも天気の良くない日には水路橋も温かくなく、我々はせっかくそこへ出かけても、またすぐに家に戻ってきてしまったのでした。
とめど op.108 (H18/4/19)
おそらくは灯明台という言葉がなまってそう呼ばれていたのでしょうが、集落の東外れのやや小高い谷あいの場所で、そこには石で造られた大人の背丈ほどの灯明台が、大きな桜の木の根元に一基あり、神祭(じんさい)と呼ばれた土地の祭りの日などには、とめどでは子供の相撲大会なども開かれていたのでした。でも通常は何もない静かな場所で、年寄りがひなたぼっこに集まったり、子供も遊びの途中で立ち寄ったり。実はこの灯明台には一度も火の点ったことはなかったのでしたが、でも地元の皆の心の中には、いつでもやさしい暖かい火を点し続ける、そんな不思議なとめどだったのです。
亀2 op.107 (H18/3/18)
当時の子供達は実に残酷なことを平気でやったもので、我々よりは少し歳上の、身体が大きくてけんかも強かった男達のこと。時は夏。四万十川支流の仁井田川は子供達の恰好の遊び場で、そして亀が特にたくさん居たのが、川岸に孟宗竹の藪があり、青黒い淵がいくつもあり、身体が小さく力もまだ弱かった自分たちには、恐くて行くことの出来なかったその場所。男達は亀を捕まえては、その時に彼らの抱いた興味は、亀の甲羅は割れると血が出るのか否かということ。捕まえた亀を力任せに岩にぶつけて甲羅を割り、水面は不気味な色の鮮血。残酷で恐ろしい場面を遠目に見てしまった我々は、ショックで言葉も出なく、ただそのままに涙をこらえて家路を急いだのでした。
亀1 op.106 (H18/3/4)
我々の遊び場だった四万十川支流の仁井田川には、石とそっくりの色合いをもった甲良の石亀が季節を問わず居て、我々はそれを捕まえては甲良の端にキリで穴を開け、丈夫な凧糸や水糸を結びつけて、家の池に放って飼っていたのでした。亀は生まれた水場に必ず帰ってしまうとよく聞かされたように、そうやって飼おうとしたにもかかわらず、翌朝には必ずと言ってもよいほどに、糸を切って池からは姿をくらませてしまったのでした。川で亀を見つけるのは簡単で、土手から静かに川底を眺めていると、何匹かの動く甲良が見えるので、そこが浅瀬ならば冬場でも簡単に捕まえることができたのでした。でも捕まえても必ず川に帰ってしまう亀なので、時々は捕まえた亀の甲羅に、既にキリの穴がいくつか空いてるのもいたのでした。
飼い猫ミイ op.105 (H18/2/25)
黒に少し白の混じった猫がいて、布団の中に潜り込ませると湯たんぽ代わりになってあったかいものだから、毎日布団で抱っこして寝てて、でもしつけなど何にもしていないので、タンスの裏の隙間に潜り込んでウンチをしてしまったり、ソソウばかりの繰り返し。おまけにぶくぶくと太ってしまい、猫の仕事のネズミも捕ってこないので、家人の内の誰かから捨てようという話になってしまったようで、父の朝の出がけの車に乗せて、遠くに捨ててくるとの由。妹と二人で見送るミイの顔はとても悲しげで、自分と妹も涙。その日の夕方だったか、翌日だったのかの記憶はないけれど、ミイがどこからかは知らないけれど家に戻ってきてしまい、驚きと感激の再会。犬は遠くからでも家を求めて戻ってくるというのは聞いたことあるけれど、はたして猫にもそんな習性があるのか。はたまた、我々の涙を見た父が、実は連れ戻していたのか。あるいは母か祖母が探して連れ戻して来ていたのか。今となってはそんなことも思い出すあの時のミイのこと。
もらい湯 op.104 (H18/2/18)
家の風呂の具合が悪かったり、大勢の客人があって我々家族の入る時間がなかったりした時には、母と妹と三人で隣の家にもらい湯に出かけたのですが、初めての時はそれでも隣の風呂が物珍しく感じ、楽しい思いで入らせてもらったのでしたが、これが二度目三度目のもらい湯ともなると、さすがに子供心にも申し訳なさを感じ、当初はゆっくり入らせてもらったお風呂も、なんだか気が引けるので、さっとお湯だけ使わせてもらって、申し訳なさがさらにつのってしまったので、それからはお風呂を借りに行くことはついになかったのでした。
梨の木 op.103 (H18/1/14)
母方の祖父の家には大きな梨の木が一本あって、祖父に会いに行く時にはいつもその木の横を通って、今日は祖父はどんな顔で迎えてくれるのかと、楽しみだったり、ある時は心細かったりで、そんなふうに祖父の存在とはいつも重なった梨の木だったのでした。祖父は地元の中学の校長をずっと勤め上げた人で、厳しい人柄は評判で、私自身にとっても、優しいけれども、でもいつも凛とした厳しさを兼ね備えた畏敬の念を抱くような人だったのです。ある時その祖父が死んでしまった時、葬式を無事終えた家を訪ねるたびに、梨の木の向こう側の入り口を開けた所で必ず出迎えてくれた祖父の存在はもうなく、ただ寂しくその木ばかりが残ってしまったように感じられ、命のはかなさと、人の死の悲しさを強く覚えてしまったのでした。
キツツキ op.102 (H17/11/21)
キツツキといっても、子供の頃に馴染み深かったのは、一番小型で色も地味なコゲラ。庭の青木の横の枯れた古木にある日突然やってきて、くちばしによるあの独特なドラミング。古木で木が柔らかいので、あたり一面にこだまするドラミングの音というわけにはいかなかったものの、その独特のしぐさが興味深く、丸く掘られた穴や、穴から落ちた木くずなどを鳥のいないスキをみては観察したのでした。古木に巣を掘ったのは、やはり柔らかいから掘りやすかったのと、木の中にいる虫を食することもできたから。一直線の飛び方や、木の幹を縦に登る歩き方も珍しく、でもあまりにも穴を観察しすぎたからか、ある時ばったりと鳥は来なくなり、その掘られたいくつかの穴のみが、むなしく残ってしまったのでした。
もず op.101 (H17/10/29)
もずは飼い鳥のメジロをねらうこともあって、不用意に庭などにメジロの籠を出しておくと、人のいないちょっとした隙にでも、ちゃっかりとメジロの頭を食いちぎって行ってしまうこともある天敵でもあったのですが、個体としてはとてもお行儀の良い鳥でもあったようで、ある時、隣の家の兄ちゃんが巣から落ちたヒナを拾ってきて、わら巣で育てていたのですが、もずのヒナは巣の中を自分の糞で汚すことは決してなく、糞はお尻を巣から外にぴこっと出して、その都度用をすませたのでした。その様子がとても愛らしく、これがメジロをくわえて行ってしまうあの鳥と同じ鳥なのかと、つくづく考えさせられたりもしたのでした。
メジロ op.100 (H17/10/22)
当時は近所のどこの家に行っても、だいたいがそこのおじさんは竹籠でメジロを飼っていて、軒先の雨の当たらぬ場所に一つか二つ竹籠を提げ、メジロの鳴きと飼育を楽しんでいたのでした。メジロの餌は主にすり餌で、大根の葉などを小さな専用のすり鉢ですり下ろし、きな粉を混ぜて水で練り上げた物。この時の練り上げ加減が微妙で、水が多すぎるとメジロは下痢をしてしまうし、逆に固い水気のない餌だと便が固まり死んでしまうし、そうやって餌の練り加減にも気を使ったのでした。メジロに限らずなのですが、鳴きをみせるのはオスで、つまり飼い鳥にするのはオスのみ。体型は細く締まり、目のまわりの白がはっきりとしているのが良型で、胸の黄色の縦縞がしっかり付いているのが鳴きが良いとされ、さらに鳴きの最期が重なるように聞けるのがめったにいない良種だといわれたのでした。
すずめ op.99 (H17/10/15)
すずめは鳥の中でも一番身近な鳥で、さらにヒナの頃から上手に餌付けをすれば、手乗りになることもあって、知り合いの自動車工場のおじさんのすずめは、そうやってよく慣らした鳥で、朝、鳥籠の入り口を開けてやると外に遊びに飛んで出て、夕方ちゃんと戻ってきて、自分で籠に入るというお利口さん。我々子供はそんなすずめに憧れて、まだ毛の生え揃わない赤子を捕ってきてはしばらく育てているものの、育て方はすごく難しく、いつも成鳥になりきる前に死なせてしまったのでした。それでも懲りずにまたヒナを捕りに出かけるのですが、すずめの巣はだいたいが屋根瓦の裏側。我々はその家の人が留守なのを確認すると、数人が見張りと捕り手に別れ、捕り手になると巣目指して瓦屋根をよじ登り、静かに瓦をはぐってヒナの様子を伺い、まだそれが毛の生えてない、目も開いてないようなヒナならば、静かに瓦を戻して巣はそのままにして、それが少し毛の生えすぎた、もう成鳥に近い鳥ならば、手乗りになる確率が低いので、その時もまた瓦を戻してそのままにして。目があいて、毛もほんの少しだけ生え揃った、これから手乗りに育てるのにちょうど良いひな鳥ならば、静かに巣から取り出して、小さな箱に綿などで巣を作って、すり餌の餌を与えながら、餌はしょっちゅう与えてないといけないので、学校の教室にまで持ち込んで、授業中は後ろの方でぴいぴいぴいぴい鳴いてても餌をやるわけにはいかず、休み時間になると慌てて、数匹のヒナに差し餌で餌を与えたのでした。
イモリ op.98 (H17/10/8)
つけ釣りによるうなぎ釣りの餌はドジョウで、そのドジョウはなかみぞと呼んだ小川で、ザルを使って掬うのでした。なかみぞで我々が使ったエリアは数百メートルで、行きは向かって左のがま、帰りは右側専門といった具合。ちょうど安来節のドジョウすくいの要領で、がまの下流にザルを据えて、片足で魚を追い込むやり方。目当てのドジョウがたくさん捕れた日は大漁の日で、時々は形の良い小さなフナの稚魚が入ることもあって、そんな時はめったにない豊漁の日。いやだったのが時々入るイモリ、グロテスクなその赤い腹を見た瞬間、いつも腰を抜かすほどにびっくりして、そんな時は気持ち悪くて思わずザルを放り投げたのでした。ちなみにうなぎ釣りの餌のドジョウは大きいのから小さいのまでいて、小さいのはそのまま一匹を餌として、大きいのはまるまる一匹だと大きすぎるので、安全カミソリを使って半分程に胴切りにしたのですが、今になればなんとも残酷なことを、いとも平気でしたものかと思うのです。
運動会 op.97 (H17/9/17)
待ちに待ったその当日は、新品の真白いパンツに気恥ずかしさを思いながら、素足に感じる土の固さと、校庭いっぱいに張られた万国旗の華やかさ。心地よい風と空の青さと、さらに興奮を高められたスピーカーの音。遠目の客席に親たちの存在を確認して、気分はさらに高まり、ピストル音にあわせて力いっぱいに駆け抜けた百メートル走。連日の稽古の成果を披露した踊りやダンス。スコアーボードの得点に一喜一憂しながら、そして忘れられない友の笑顔。
蛍 op.96 (H17/9/3)
無数の蛍の飛び交う暗闇に
少年は一人たたずむ
蛍は今が永遠の一瞬であるかの如くに
時を止めてしまったかの如くに
輝き続け
星に溶け込み
流星へと姿を変える
少年は
更に深き永久の地に思いを馳せ
星と蛍の一夜に酔いしれる
谷の水 op.95 (H17/7/16)
集落沿いの山の懐には小さな谷川が何本かあり、台風の後などには恐い濁流になることもあり、我が家の横の川も、大水の時は氾濫にならないよう、早く水が引いてくれるよう、いつも祈る気持ちでいたのでした。いつもはその谷はせせらぎ程の穏やかな場所で、我々は小石をはぐり、沢ガニを捕まえて遊んだりもしたのでした。家々には小さな池があり、鯉などを飼っていたのですが、水はその谷からの引き水で、仕掛けは山中の源流に孟宗竹で作った樋をかけ水溜めとし、水溜からホースを使って家々まで流すようにしてあり、ホースは数百メートルもあって、途中に何カ所も継ぎ目を作って、詰まった時に修理できるようにしてあったのです。大水の後はホースが下流にまで流されたり、泥や枯れ葉が詰まったり、修復作業は大変だったのですが、鯉の命につながることだったので、そんな時は慌てて修復にあたったのでした。
鯉の放流 op.94 (H17/7/2)
梅雨時前の田植えが終わったばかりの田に、父は縫い針のような小さな鯉の稚魚をどこからか買ってきては放流したのでした。田は鯉の餌になるプランクトンが多いから、早く大きくなるのだと話していたように、稲がある程度大きくなって、田の水を払うようになる頃には、大きいのだともう15センチ程のりっぱな鯉に成長していたのです。ただし、年間を通して雨の多い高知では、雨降りと同時に田の水も増し、その度に鯉は田から流れ出し、最後まで無事成長して池へと収まるのは、数百匹の稚魚のうちの、ほんの数匹だけなのでした。
竹バット op.93 (H17/6/11)
当時は金属バットはまだなくて、中学の軟式野球では、一番飛び、且つ丈夫とされていたのが竹を貼り合わせた素材で出来た竹バットで、自分も念願のそれを一本手に入れてからは、毎朝夕300回とか500回とか目標を決めて、小さく貧弱な身体でも、自分なりの素振りの稽古に励んだのでした。田舎の野球少年にとっての当時のヒーローは何といっても王と長嶋で、王は早実ではピッチャーで、塀に目標を作ってそれをめがけて投球練習したと聞けば、自分も早速我が家の庭のブロック塀に手頃な菓子の空き缶の蓋をぶら下げ、それをめがけての投球練習に精を出したり、また王は雨の日は部屋の畳の上で素振りをして、あの一本足打法を身につけたと聞けば、雨も降っていないのに六畳間で素振りをしては、ふすまにバットをぶつけて部屋の素振りは無理だと思ったりもしたのでした。
トンネル越しの行商 op.92 (H17/6/4)
隣町の漁師町から、週に何度か背中に荷物をいっぱい背負った行商のおばさんたちがやってきて、荷物の中身は干物の魚だったり、ちょっとした手作りの総菜だったり、夏の時季には赤紫色に熟したヤマモモの小さな沢山の実だったりで、家々を訪ねては濡れ縁側に荷を開いて、家の女達と話を弾ませながらのひとときを過ごすのでした。隣町からは二十数個のトンネル越しに、おばさんたちは線路を歩いて行商にやってくるので、当時はまだSLも走っていたので、おばさん達はSLが通りすぎた後のトンネルをくぐるものだから、顔といわず全身すすまみれで、でも白い歯をみせた優しい笑顔は、我々に懐かしいものを同時に与えてくれたのでした。
竹垣 op.91 (H17/5/20)
当時の家々の垣根はだいたいが竹の垣根で、竹は数年経つと風化してみすぼらしくなってしまうので差し替えないといけなく、そんな時期の日曜には、家族総出で山から孟宗竹を何本も切り出してきて、まずは一メートル半程度の適当な長さに切り揃え、次に枝鎌(えがま)と呼ばれた斧で適度な短冊状に割り、仕上げに指を傷つけないよう軽く角を取ったあと、それらを一本ずつ順序よく並べて塀にするのはその家の主の仕事。朝早くから作業を始めてお昼頃には半分程度が真新しい竹塀となり、我々はまだ取り去られていない古いくすんだ竹塀と、青々と並び揃った新しい竹塀との妙な色合いのコントラストを眺めながら、縁側でお昼ごはんをいただくのでした。一服し終わった午後は遅くまで作業を続けたくないので、午後の作業はみんな寡黙に、そしてやがて段取りにも慣れてくるので、子供たちもやっと最後の仕上げの作業にも手を出せるようになったのでした。
たけのこ op.90 (H17/4/16)
春先の山菜の時期には、裏山の竹林はたけのこの乱立で、たけのこはすぐに大きくなってしまうので、採る頃合いが一日遅れてしまうだけでも、もう固くて食べられなくなってしまったりもするのでした。刀鍬と収穫のための大きな麻袋をかついで、長靴を履いて出かけるのですが、たくさん採れてしまうので、いつも帰り道には担った袋が肩にのめり込んで、重くて痛い帰路となってしまうのでした。いたどりと一緒に煮込んだ時の、根っこの一番下の場所の一番固いところが私は大好きでした。
ドンマイ op.89 (H17/3/26)
中学の野球部は、先輩からプロ野球選手が出たこともある名門で、でも自分たちの時は名ばかりの名門になってしまっていたのです。みんな野球が大好きな仲間で、そしてとても仲がよく、試合では負けてばかりでいても、野球が出来ることが嬉しくてしようがない仲間達だったのです。同じ地域で抜群に強かった某中学に、全員一丸になって必死に挑み、そして気持ちのよい勝ちっぷりで公式戦初勝利を治めたことは、いまだに素敵な唯一の輝いた思い出なのですが、でもそんなことは本当にそれっきりの出来事で、いつもは一方的な見事な負けっぷりの試合ばかりだったのです。声をかけ合って、励まし合って、いたわり合って、そんなチームの中でいつしか合い言葉のようになった言葉が「ドンマイ」(気にするな)。そんな優しさいっぱいの言葉だったのです。
くるみ op.88 (H17/3/19)
中学の校庭の一番奥まった所に、高知では珍しい鬼ぐるみの大きな木が一本だけあって、その実を採ることができたのは力関係の強かった3年生の特権だったのでした。ある時の放課後、一年の男子は全員くるみの木の下に集まるようにと、どこからともなく不気味な指令が届き、身体が小さく上級生の恐かった我々は、逃げ帰るわけにもいかず、恐る恐るその場所に集合したのでした。「くるみの実を3年の許可もなく、勝手に採ったのは誰だ?。」身体が大きく力も強く、恐かっただけの大勢の3年生のその威圧に押されながらも、まったく身に覚えのなかった我々は、「知りません」と素直に答えて、無事釈放されたのでした。
植林 op.87 (H17/3/16)
炭焼きをする人に雑木を売り払った後だったのか、その広い山は頂上まで下草までもがきれいに刈り払われていて、その斜面に等間隔に苗木を植えるのがその頃の日曜日の家族の仕事で、自分はせっかくの学校の休日が何週にもわたって家のその作業に当てられてしまうのが面白くなかったりもしたのですが、それでも苗木を入れた袋をかついで、刀鍬(とうぐわ)を片手に登った山は空気がよく、とても気持ちがよかったのです。苗木は杉と檜で、刀鍬で掘った小さな穴に、根を重ならないように広げて伸ばし、土と栄養素の代わりに枯れ草を混ぜて盛り上げて仕上がり。広い山だったので自分に当てられた一日の苗木の数も結構な本数で、そのうちに疲れてくると、親の目を盗んでは植えないで苗木を数本まとめて投げ隠し、自分のノルマを少なくしたのでした。今になるとそのことばかりがはっきりと思い出されるあの時の植林なのです。
ケツばっと op.86 (H17/2/19)
中学の野球部はバンカラ色のまだ残ったクラブで、身体が小さくて、でも手先が器用だった自分は、先輩達のいじめにも似たしごきの良いターゲットになることが当初あって、マスクも付けないでキャッチャーを突然やらされて、先輩の剛速球に手を腫らしたり、でも我慢して平気面でいたりするものだから先輩達は次第に自分をマスコットのように可愛がってくれるようにもなったのでした。身体が大きくて力が強く、とても怖い先輩達のターゲットはただ自分のみであったわけではなく、仲間の誰かが練習中にだらけてしまったりした時の、特に怖かった仕打ちがケツばっとで、ホームベース前に何人かで並ばされ、歯を食いしばれと言われて中腰になり、先輩が素振りの稽古よろしく我々の尻めがけて力任せにバットを振り下ろすのです。怖くて痛い思いをした我々は、自分たちが先輩になった頃には決して後輩にこのような仕打ちをすることはなく、そしてケツばっとを受けた時などでも、水を飲んではいけない練習中にもかかわらず、我々は土手の向こうの田んぼに飛んで行ったホームランボールを探しに行く振りをして、見えないように身を隠し、田んぼの用水の生ぬるい水で、身体と心を癒しつつ、そんなふうにしてたくましく自分達を鍛えていったのでした。
つくし op.85 (H17/2/15)
小さな田んぼのあるヨウジダニと呼ばれる山あいの場所は、わき水が一年中流れる細い谷があり、接ぎ木をされた栗の木があったり、やまぶきやイタドリやタケノコのたくさん採れる竹藪もある場所で、山あいなので日当たりは良くはなかったのですが、午後の西日はポカポカの日射しを運んでくれる場所だったのです。冬日が和らぎ、春が感じられる頃になると、つくしの群生がそこに現れ、他にそんな場所がなかったから、そこは自分だけの秘密のつくしの場所だったのです。
自転車通学 op.84 (H17/1/29)
中学の時は片道4㎞の自転車通学で、雨の日は学校指定のカッパを着て自転車をこぐのですが、これが意外と爽快で、でもすごく激しい雨降りの時には、顔中に大粒の雨が当たり痛い思いをしながらペダルをこぐのでした。南国高知といえども冬は時折雪の降ることもあり、冷え込んだ朝には道路は凍ってしまい、気を抜いてしまうと思い切り何度もこけてしまったのです。雨や寒い日でもなければ自転車通学は快適で、少し寒いくらいならば4㎞の道のりを殆どズボンのポッケに手を入れたまま、軽業師よろしく両手放しで、鼻歌などを歌いながら中学へと向かったのでした。
金比羅さん op.83 (H16/12/20)
自宅向かいの山の中腹に金比羅さんの小さなお社があって、年に一度か二度のお祭りの日には、地元の家ではそれぞれに料理を作り、そこに持ち寄っては家内安全などを祈願したのでした。お社の中は四畳半程度の広さはあるものの、古くなった板張りの建物なので、冬などはすきま風もひどく、でもそこは神のいる場所。子供たちは決して室内に安易に足を踏み込むことはなかったのでした。お社の前庭もまた狭いながらもそこから見る郷里のながめは素晴らしく、特に春先、田に水が張られた頃は、うっとりと見とれるほどに美しいのでした。また自分にとっての金比羅さんは最高の特別の場所で、何かあるにつけ、九十九折れのあの細い山道を早足に、お社を目指していたのでした。
鳩 op.82 (H16/10/2)
鳩といっても上等な伝書鳩などではなく、ふつうの土鳩だったのですが、ごま塩模様のメスと全身真っ白のオスとのつがいで、木のリンゴ箱で作った鳩小屋を風呂場の外のブロック塀の上にしつらえて、中から外へは出られない仕組みの針金製の入り口。決まった時間に小屋から出して、口笛の合図で戻ってくるようしつけたかったのですが、なかなか思うようにはいかず、そのうちに小屋に入れられるのがいやなものだから、口笛にはそっぽを向くようになり、おまけによその家の畑に入って植えた野菜の種などをほじくってしまうので、ついには人から苦情をいただく始末に。でも飛び立つときの羽音と、飛び交う姿の優雅さには何ともいえない魅力があり、そして、卵を抱いた姿には野性を強く感じたのでした。いつもは手から餌を食べるほどに慣れているのに、卵に手を伸ばすとバサッと音を立てて、手が切れてしまうほどに強く羽根でたたかれてしまうのでした。
柚子の木 op.81 (H16/8/14)
自宅裏の垣根沿いには背の高い柚子の古木があって、収穫の時期になると一家総出で竹の物干し竿でこしらえた柚子鋏み(柿の時期には柿鋏みに変身)を使って収穫するのです。一個一個採るのは大変なので、時々は木の幹を強く蹴って柚子の実を根こそぎ落として採るのですが、これが柚子に混じって毛虫や木の汚れなども一緒になってたくさん落ちてくるので、蹴った後は一目散にそこから離れないととんだ目にあってしまうのです。そうでなくても柚子の木にはトゲがたくさんで、小枝に触るときも細心の注意が必要だったのです。収穫したまだ青い柚子の実はさっそく包丁で半分に切られ、専用の絞り器でしっかりと絞られると柚子酢の出来上がり。汁をしぼられた後の固い皮はその後甘口に煮られ、その苦さと甘さとの微妙に調和した柚子の皮は、それからしばらくの間はごはんのおかずとなるのでした。物心ついたばかりの頃に柚子を普通のみかんと間違えてかじった時のにがさは、今でも口の中がすっぱくなるほどの苦い思い出なのです。
ずみこみ op.80 (H16/7/15)
川の浅瀬に沈み込ませてうなぎを採る仕掛けからその『ずみこみ』の名がついたのでしょう。(沈み込む、あるいは潜り込むことを土佐弁では「ずみこむ」)60cm程に切った孟宗竹の節を片方の端になるようにして、節から上手に水が抜けるようにキリでたくさんの穴を空け、もう片方の節のない端にはセルロイドの下敷きを寸法良く切ったのに、やはりキリで水抜きの穴を作って竹に斜めに差し込んで、中に入ったうなぎが外には出られないように入り口を調節して、餌はドジョウかミミズ。これが丸い孟宗竹製ではなくて、板を使った四角いタイプのもあったのでしたが、その仕掛け自体はどちらも同じなのでした。人によってはこれを何本も作って四万十川支流仁井田川の自分だけの秘密の浅瀬に仕掛けるのですが、我々子供は夏の水浴びの時に他人の仕掛けを見つけると、息を殺しながら見なかったふりをしてさっとその場を通りすぎたのでした。仕掛けのどこが悪かったのか、あるいは仕掛けた場所に問題があったのか、ちなみに私の仕掛けには一度もうなぎは入ってくれなかったのです。
数珠の実 op.79 (H16/3/9)
数珠の実はどこにでもあったわけではなく、山あいをずっと降りてきた小さな谷が、四万十川支流仁井田川にかかる少し手前の北側の土手で、すぐ近くには少しだけ深くなった蒲にハヤの大型で腹が真っ赤なアカンバイがいつでも何匹かいる、我々子供には恰好の魚すくいの場所があった所でした。数珠の実は野に山に春の息吹きが感じられはじめた頃に見つけたような気もするし、夏に川で水浴びをした帰り道に摘んだような気もするし。でもその実に糸を通して首飾りを作ったりの女の子遊びは決してせず、不思議な輝きを持ったその小さな実は、持ってること自体に意義がある、そんな男の小さな宝物だったのです。
小春日和 op.78 (H16/1/7)
いつもは水のない小さな谷を隔てた場所にあった隣家の二人暮らしの老夫婦は、少しばかりの田や畑の持分はあったものの、生活のほうは簡素極まったそれは細々としたものでした。昼間でも薄暗い家の横には幹の細くてまっすぐに高く伸びた柿の木があって、夫婦はたくさん実らせる小さなその実を採っては、すだれのように見事な干し柿に仕上げたのです。陽当たりの良い小さな縁側の端には、いつ逝っても良いように朱で名を刻んだ二基の小さな墓石があって、足腰の弱ってしまった主人のほうは、キセルに葉煙草をくゆらせながら、日よりの日には日長そこで太陽と向き合ってるふうに見受けられました。風のない穏やかな小春の日和と、主人の着古した着物と白い無精ひげ。そして自分をみた時の優しい微笑み。それらはいつしか自分の中に、冬の到来を示すひとつの光景として刻まれていたのです。ある冬、老衰で主人が亡くなった後の小春日和の穏やかな縁側で、そこに今までずっと座っていたはずの主人が見えなくなった光景は、悲しくて寂しくて、はかない命のことを思わされたりしたのです。
どんぐり op.77 (H15/11/24)
カラカラに乾いた粘土質の土手を滑り落ちないように上手に登り切ると、小学校のその裏山はどんぐりの宝庫になっていて、手の平に乗せたどんぐりは、この秋の柔らかな陽射しを浴びて、まるでダイアのようなキラキラの輝きをみせてくれたのです。その裏山にはまた水晶の取れる秘密の崖もあり、我々はダイアのドングリをズボンのポケットにひそませて、今度は水晶探しに懸命になったのでした。でもその水晶崖は陽の当たらない少し湿気っぽい場所だったので、我々はじきにまた日なたを求めて、少し水晶を探してはまたドングリの場所に戻り、そんなことを何度も何度も繰り返していたのでした。
秋の虫 op.76 (H15/10/11)
土間でコロコロ鳴くコウロギの心地よいBGMのさなか、スイッチョとよばれた馬追は家の中に飛び込んでは電灯や壁にへばりついて、そのかん高い声でずっと鳴いているものだから、最初は楽しく聞こえた声は次第にうるさくなり、姿を見るたび家の外に投げ放つ役は自分の仕事。外灯のない黒闇の中、鳴き声を頼りに姿を探したガチャガチャのクツワムシ。鳴き声を目当てに懐中電灯で茶の木の小さな茂みを分け入ると、懸命に羽根を震わせ鳴き誇るその勇姿。クツワムシは形も大きくりっぱで、緑の身体が秋の深まると共に茶に変色、秋の虫の王たる貫禄充分なのでした。澄んだ空と無限の星と、闇と冷たい外気。騒々しく鳴き誇る秋の虫たちはその中での季節の演出家なのでした。
流星 op.75 (H15/9/14)
夏から秋にかけての夜の空気は斬新で
少しばかりの外灯も深夜になると落とされて
あたりは一面の暗闇の世界に
夜空に光る星群は手を伸ばせば届きそうに近く
幾たびとなく手を伸ばしては空想と現実の狭間に浸りながら
偶然に落ちる星の色は可憐にして神秘的
残影は深く深く瞼に焼き付いたまま
流れる星は、あの時の流れたままに
台風 op.74 (H15/7/29)
夏から秋にかけての長い時期に襲ってくる台風は毎年の脅威で、台風の中、男達は被害を最小にくい止める為、合羽を着てくわを手に土留めや排水の作業に出るのです。台風一過、台風の行き去った後の四万十川支流仁井田川はその都度必ず真っ茶色に濁った大水で氾濫、稲の穂の出そろった水田はすっかり水に浸かってしまったり、あるいは風でなぎ倒されてしまったり。すぐ近くに質素な家でひとり暮らしをしていた老婦は、台風のたびに我が家に避難。電気の切れた部屋で蝋燭のボンヤリとした明かりを頼りに、激しい雨と風とが行きすぎるのをじっと待つのでした。
酔狂 op.73 (H15/6/26)
土佐の酒飲み達の集まる少し大きな酒宴になると、子供でさえもいつか酔狂という言葉を自然と覚えてしまい、そして酒飲み達を見ていて、一番嫌いだったのもこの酔狂のひとときだったのです。ある人達は酔うと必ず大声で戦争の時の歌を歌い出し、その声は酒に飲まれた時からは、くどくていやな歌となり、またある人達は酔うと必ず赤い塗り箸を持ち出しての、喧噪慌ただしきハシケンの始まり。それはいつの間にかいつだって大声や罵声混じりの恐い席となってしまい、そして酒宴の最後はいつだってささいな言い争いから始まった本物の喧嘩になってしまったのです。弱い女や子供達はそんな時は喧噪が鳴りやむまでの長い時間を、ただ息をひそめて我慢するしかなく、日本酒の気持ちの悪い匂いと、暗い後味の悪い想いとが重なって、酒飲みは嫌いだといつも思っていたのです。
皿鉢2 op.72 (H15/5/22)
正月や神祭などの毎年恒例の行事の客のもてなしは、この皿鉢料理がもちろんメインで、結婚式のお祝いや、葬儀の後のお斎の料理もまたこれがメインなのです。少しばかり客が増えた時でも、取り皿さえあればそれに対応できるのがこの料理のまたひとつの特長。母方の祖父は皿鉢料理作りの名人で、天気の良い日だったら庭にいくつもテーブルをしつらえて、気持ちの良い太陽の光を浴びながら、何枚ものこの皿鉢料理を作るのでした。ちょっとした行事があれば、来客は近隣者や親戚で二十数名ほどになることはしょっちゅうで、そんな時は表の間のふすまを取り払い、広い座敷を作り、そこでこの皿鉢を肴に夜のふけるまで杯を酌み交わすのでした。
皿鉢1 op.71 (H15/4/7)
鰹のさしみとタタキと土佐巻きの寿司の三種類が当時の皿鉢料理のメインで、さしみ皿鉢の真ん中にはさしみ醤油の入った湯飲み茶碗が置かれ、銘々が豪快にさしみをその茶碗に漬けてから皿に取り食べるのでした。私の好きだったのはタタキよりも圧倒的にさしみで、直径60センチほどの大皿鉢に盛られるものだから、その量たるや見事に豪快だったのです。土佐の酒飲みたちは酒の宴の締めには熱い白いご飯の上に食べ残しのさしみを数枚置き、熱い湯をかけ、真っ白に茹で上がったさしみ茶漬けを好んだのです。私も当時真似をしてみたのですが、間の抜けた味気なさにがっかりしたものでした。土佐寿司は酢じめのごはんを使うので、食べる時に醤油はつけないので、江戸前の寿司を後年初めて見たときは、食べ方に困惑したものでした。土佐寿司の巻きネタは昆布、たまご、海苔と大きくわけてこの三種類で、私はなんといっても昆布巻きが大好きでした。後年試してわかったのですが、これを口に含んで、そこに土佐の地酒を流し込むと、酒と酢と昆布の微妙に混ざる食感がすごく美味いのです。
泣きみそ op.70 (H15/3/29)
母の黄緑色の自転車の荷台にまたがって嬉しい気分で出かけたのは、ずっと山奥の小さな集落にある遠縁の家。たくさんの乳牛と日焼けした顔のおじさんが印象的だった家。はじめてひとりで預けられた家。日焼けしたおじさんは声もでっかくて迫力満点でただただ恐かったおじさん。そのおじさんが大きな声で誰かと言い争ってるのを聞いたとたんに自分は大泣き。それからずっと泣きやまず困り果てたその家のみんなはさっそく母にSOS。泊まりがけだったおでかけは、数時間だけでまた母の自転車の荷台でまだすすり泣きながらのお帰りとなってしまったのでした。後で聞けばおじさんは言い争いでも何でもなくて、ただ普通に話しをしてただけのことだったとか。
雪だるま op.69 (H15/1/16)
高知で一冬に数回降る雪の日は子供達はたいそうな喜び方で、犬は喜び庭駈けまわり猫は炬燵で丸くなるというのは、まさにこれだと思いながら、たくさんの子供達に混じって縦へ横へと楽しそうに駆け巡る犬を見ながら、自分も負けじと走りまわったものでした。少し積もった時には雪を転がして雪だるまを作るのですが、あれは大きくなるにつれて形がいびつになってしまい、おまけに転がしてるうちに直に地面に至ってしまうものだから、白い雪の中に所々土や石が混じった綺麗でない雪だるまが出来てしまうのです。いつか本で見た雪だるまのように、炭やたどんを持ってきて目や口や鼻を付けてみるのですが、正月の福笑いよろしくいびつでおかしな顔つきになってしまうのです。また雪といえばやはり本で見たかまくら。中で火鉢を焚いてお餅を焼いたりトランプで遊んだり。でもかまくらを作る量の積雪は勿論ないわけですから、かまくらへの思いも冬を迎えるたびに重なっていったのです。冬になると雪深い東北あたりを今でも訪ねてみたくなるのは、そんな憧れが未だにある証拠なのでしょう。
なかみぞ-4 その後 op.68 (H14/11/20)
子供の頃は各家庭の女たちはまだそこで洗濯物を洗ったり、しじみや小魚やうなぎ、時には小魚すくいの下手物として網の中に入ってくるお腹が真っ赤で飛び上がるほどに気持ちの悪いイモリとの遭遇、そんなふうに生活の中に自然と馴染み親しんだこのなかみぞも、この数年のうちに随分と進んでしまった大規模な農地整理事業によって、惜しくもその姿をすっかりと消してしまい、無機質に見えてしまうコンクリートのU字溝へと姿を変えてしまいました。なかみぞの一角の土手には四つ葉や五つ葉のクローバーが群生する自分だけの秘密の場所もあったのですが、そんな所もたくさんの思い出を封じ込めてしまうかのように、大きく正しく形取られた新しい田園風景へと姿を変えてしまいました。未だにノスタルジックな思いを追いかけてしまう自分にとってはそんな景色は見るに偲ばず、つい目頭の熱くなるのを覚えてしまったりもするのですが、でもこれもご時世。故郷を離れてしまった自分にとってはひとつの衝撃であると共に、またひとつの出発点を見出す手がかりかなどと思いつつ、またあの頃を思い浮かべてしまう。これも歳の為せるわざか、はたまた晩秋のちょっとした悪戯事なのか。
なかみぞ3 ひご釣り op.67 (H14/10/18)
稲田への消毒の害がまだうるさく言われなかったその頃は、夏場などは水田の用水路のこのなかみぞでもたくさんのうなぎが釣れ、その釣り方に二通りがあり、ひとつが数メートルのたこ糸の先におもりの代用の小石と、その先の釣り針には餌にどじょうを付け、夕刻仕込んで早朝釣り上げに行く方式のつけ釣りで、もうひとつが昼間のうなぎ釣りの方法のひご釣り。 長さ70センチ程度の細い竹ひごの先には細長いうなぎ針が巻き付けられていて、餌はみみずで、竹ひごの先からみみずを通して釣り針の先まで持ってゆき、それをうなぎが潜んでいそうなガマと呼ばれる水中の石積み土手の中に静かに差し込み、うなぎがそれに食らいつくまでじっと辛抱強く待つ方式。 この竹ひご釣りのひごがやがて針金の丈夫な物に変わってゆくのですが、うなぎが餌に食らいついた時に慌ててひごを抜いてしまうとなかなかうなぎは深いガマの中から上手に出てくることはなく、つまり釣れなくて、それに食らいついた直後からうなぎが起こすひごをくるくると回す動作をさらにじっと我慢しながら手の感触で確認しながら、少しうなぎが疲れた頃にじょうずに引き抜き釣り上げるわけですが、私は一度もこれに成功したことがなく、近所の大人達の上手な手さばきにいつも見とれてるばかりなのでした。
なかみぞ2 しじみ op.66 (H14/10/9)
春先と秋の終わりのたやくと呼ばれる田の用水の補修作業の数日間は、このなかみぞの水も上流でせき止められすっかりと干せ上がり、我々子供は川底に露出した魚を捕まえたり、日長一日座り込んで底の土を棒きれで掘りながらしじみ採りにもいそしむのでした。清流にしか生息しない真しじみは、それでも一日じゅう掘り探すとその後数日間は朝食のみそ汁の実になるくらいの量は充分に採れ、我々は空き缶に採り溜めたしじみを持ち帰りすぐ水に漬けてどろをはかせ、翌日の朝食にそなえるのでした。 このしじみ採りの遊びは日長一日じゅう座り込んで行うので、子供心にも夕方にもなると腰が痛いという感覚を覚えるのでした。 食べ終わった後のしじみの殻は手で閉じて持って貝柱の部分を石にこすりつけ、上手に二つの穴を開けると貝笛にもなるのでした。
なかみぞ1 洗濯場 op.65 (H14/9/18)
なかみぞと呼ばれる田んぼの中を流れる1本の小川は、まだ家庭に洗濯機が充分普及していなかったその頃には、家々の女達が籠にたくさんの洗濯物を入れては集まる洗濯場であり、また一つの社交場にもなっていました。 小川と言っても幅は1メートル深さは20センチ程度の小さな用水で、春から夏を通りすぎて秋口の水が冷たくなるまでの長い期間は我々子供達の小魚すくいの格好の遊び場にもなっていた場所です。 洗濯場はそのなかみぞの4ヶ所にあり、女達がひざをすえて洗濯ができるだけの小さな板が敷かれてあるだけのものです。 子供達は家の洗濯を手伝ってすすぎの時にはシャツや下着を手に持って川沿いの小道を数メートル上に走りそこから下流に向かって流すのです。 水の流れに乗った洗濯物の動きの愉快さと、親たちの陽気な話にも心が弾んで楽しく手伝ったものです。 石鹸による水への害などということはまだ一切言われていないころの、青空と固く絞られた洗濯物が懐かしいいにしえのノスタルジア。
段々墓地 op.64 (H14/8/16)
まだ舗装にならない狭い砂利道の国道を横切って、その先の栗の木が数本植わった畑を通り過ぎ少しばかり山手に登った場所がその小さな集落の集合墓地になっていて、彼岸やお盆の前には家々の人たちは手に手に鍬や釜を持って一日がかりの墓掃除に出かけたのです。 少ない家では二基か三基、多い所では十数基もの苔むした墓石がまるで段々畑のような風情で並んだその中で、我々は岸の草刈りや草取りにいそしんだのです。 この墓の群れの一番てっぺんには大きくてりっぱな墓石を数基構えたお宅の墓地があり、墓碑を読みながら子供心にも偉い軍人さんのお墓だと畏敬の念を抱いたのでした。 そのころ我が家の隣に住んでいた老夫婦の墓も、それまでは一つっきりだったのがいつの日かついに二つ並んでしまい、真新しい赤字で刻まれたその墓石に命のはかなさを感じたりもしたものです。その段々墓地の真ん中辺りに勢い良く伸びた大きな桜と黒松の大木があって、夏にはそのヤニに集まるアブが墓掃除の邪魔をしたりもするのですが、そのりっぱな二本の木に我々は魂のシンボルを感じたりもしたのです。
代掻き(しろかき) op.63 (H14/5/8)
細々と農家も営んでいた兼業農家の我が家では、耕運機や脱穀機の類は全てが農協の払い下げの中古品で、おまけにそれらは時季を向かえるまでは納屋の奥にずっと放置されたままなものだから、いざ今日が本番で田んぼに出して作業をしなければならない日には必ずと言ってよいほどに機械のエンジンのかかり具合いが悪く、それらは殆どが細いロープを使って稼動させるタイプであるために、小さなマフラーから心地よく二気筒の回転音が出るようになるまでには、すっかり息の方が上がってしまうほどに重いロープを引っ張り続けなければならないのでした。 代掻きと呼ばれる田に水を引いて耕運機で耕すこの春先の作業は中学生になった私の日曜日の仕事で、平坦な場所の田んぼならば何の問題もないのですが、土手を少し駆け上がったり、かなりの勾配で下がったりしないと田に入れない場所では機械に引き込まれそうになったり、逆に跳ね飛ばされそうになったりと危険なことも度々でした。 我が家の隣に住んでいた一人暮らしの小さなおばあさんは、この代掻きの仕事をずっとクワ一本で行っていたのでしたが、ある日私が機械を持ち込んで手伝ってやると、しわくちゃの日焼けの顔をほころばせて喜んでくれたのです。 土地柄収穫量の少ない痩せた田ばかりの田舎なのですが、そのおばあさんの田んぼはそれまでには感じたことがないほどに細く痩せぎすな田だったのです。
春の小川 op.62 (H14/4/6)
母方の祖父の家には大きな納屋があり、その前には小さな川が流れていて、いつも豊かで澄み切った水を蓄えたその小川にはモツゴやハヤの稚魚が勢い良く泳いでいました。 長い緑色をしたたくさんの金魚藻も流れに沿っていつでも気持ちよさそうにゆらゆらと揺れているのですが、春になって水田の準備が始まると川は今度は貴重な用水路となるのです。 耕運機で耕された水の張られた田んぼと小川のコントラストはとてもやさしいものがありました。祖父宅に遊びに行くと帰り際は必ずみんながその小川にかかる小さな橋のたもとまで見送りに出てくれて、そして我々の姿が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振っていてくれるのです。
踏んだらモーター op.61 (H14/3/30)
黒い大人の自転車にバイクの小さなエンジンを搭載した自転車モーターを母方の祖父は持っており、ついぞそれにまたがった祖父の勇姿は記憶にないものの、その物珍しさという点ではそれは当時の自分の中では他を郡抜いた存在だったのです。 几帳面で何に至っても大事にした祖父によって磨かれぬいたその車体は、春の朝日を全身に受けてまぶしくキラキラと輝いているのです。自転車モーターというのが正式な名前だったと思うのですが、ペダルを踏んでいるうちにプラグが着火しエンジンが発動するその仕組みは、踏んでるうちにモーターに変身するという意味合いから、我々は踏んだらモーターと呼んだのです。
迷子札 op.60 (H14/3/22)
その日は母方の祖父に呼ばれ、「明日は二人だけで町に出るから、もし迷子になったらこれを誰かに見せなさい」と言われて私の服に縫いつけられたのが祖父の名刺。 迷子札という物があるとしたらあれがその迷子札だったわけです。私は初めて祖父と二人で遠出をすることの楽しみや不安とは違って、胸に縫いつけられた迷子札がただただ恥ずかしいまま、次の日は祖父と向かい合って汽車の椅子に腰掛けているのでした。 目的の地に着いて祖父が所用を足している間のそのわずかな一人の空間、心細さが胸の迷子札を今度は切ない思いに変えるのでした。そして暗くなった夕刻、無事に帰宅した時の祖父の笑顔はまるで宝物のように輝いて見えたのです。
祖父とめじろ op.59 (H14/3/9)
母方の祖父も鳥が好きで、ある時おとりのメジロを使って鳥モチで捕まえた形の良い鳴きの良さそうなのを持って汽車で届けに行ったことがあるのですが、祖父はわざわざそうやって持って来てくれたことをすごく喜んで、さっそく竹製の四角な鳥かごに入れて庭の物干しの辺りに掛けてしばらく鳴きを楽しんでいたのですが、その後すぐに居間で祖母と三人でお茶を飲んでお菓子をいただいて、そろそろ夕方で暗くなるから鳥かごを部屋に入れようと外に出た祖父がすぐさま悲しそうな申し訳なさそうながっかりした顔で居間に帰ってきて、モズにやられてたとのこと..。 モズはメジロを襲って首だけを持って行ったらしいのですが、孫の私にはそれを見せないようにすぐに始末をしてしまったようで、悲しい気持ちよりも祖父の私に対するそんな思いやりの方が、ずっと後になっても脳裏から離れなかったのです。
赤いふん op.58 (H14/2/27)
母方の祖父はずっと中学の校長をしていた明治生まれの頑固者で、父方の祖父とは遠く離れて暮らしていた自分は小学校が休みの時は汽車に乗って、隣町のその祖父宅に泊まりがけでよく出かけたものです。 ある夏の日のこと、祖父宅のすぐ横手を流れる四万十川の支流に祖父と二人で水浴びに行った時のこと。仁井田橋と呼ばれる地域のシンボルのようなその橋の上から遠く水辺を眺めると、地元の自分とは年格好の似通った子供達が大勢で水浴びしているのが見えました。 その時祖父がかまえてくれた水着がなんと赤いふんどしで、イタセクスアリスなど随分遅蒔きな自分としても、その格好は照れるに充分な材料で、でもおじいちゃんと二人であかふんは勇ましいなどと思う少しばかりの感情が間違いの元で、川辺に現れたふたつの全裸を包んだ小さな赤き布きれ姿はまたたく間に世間の注目の的となり、その上明治の男はそうやって水辺で魂を鍛えたのかと思うほどの強力な泳法で、つまり五メートルほどの大きな孟宗竹の端と端とを二人で持って水流に逆らい泳ぎ昇るというのだから、子供のしかも照れくさくて仕方のない自分にとっては全く持って無茶な話。 懸命に竹を持つもすぐさま哀れにもぶくぶくと沈み、たくましい明治男のようにはさっそうとは男を上げられなかったのでした。
冷凍みかん op.57 (H14/1/9)
郷里の高知県西端の足摺岬にある旅館では、冬、雪が降った時の泊まり客は料金がタダになるというサービスが今もあるくらいで、ましてや根雪になるようなことは滅多にないのですが、それでも記憶に残るずっとずっと昔の一度だけ、30cmくらいの積雪が我が家の庭にもあって、父親がみかんを雪の中に埋めて冷やしてくれたのを食べたのがその最初の記憶。 中学一年の夏休みに活禅寺の夏安居に来る急行列車の中で、同行の某方が車内販売で買ってくれたのが二度目でそして最後の記憶。そういえば冷凍みかんはあの時以来は見かけたことがないのですが、食べる物が豊富になってついに世の中から姿を消してしまったのか。 雪を見るたびに思い出していたあの記憶さえもがもう遙か彼方の片隅に追いやられているのです。