よもやまエッセイ

op.29 諸天天鼓を撃て 常に衆の伎楽を作す r06/03/21 mugen

 昭和二十三年に行修された当山第一回大伝法行での感応道交御示顕の話を、無形大師や先達らがされているのを入山したばかりの私は側で興味深くお聞きしていた。大伝法行中に頭上からどこからともなくパラパラパラパラと五色の蓮の葉が降り注ぎ、またその後年行修された第二回大伝法行では、天部の仏様が奏でられる天楽の音がどこからともなく聴こえてきたのだそうだ。緩やかで柔らかな笛の音による天楽は、私も入山時から法行の中で何度か聴いていたが、これはその頃の龍王殿月例祭法行で体験した感応道交の話などである。
 
 その日の月例祭ではいつもの笛の音は聴こえてこないなと思いながら読経をしていた。テレビのアンテナが正しく立っていないとうまく電波を受信出来ないのと似て、祈りの合掌も正しく組めていることがとても重要と教わったので、読経中は正座を崩さず合掌の形も正しく維持しての祈りに集中していた。坐禅もそうだが長い時間座って身体や足が痛くなった時は、この痛みも全て引っ提げて仏様にお任せすればいいんだと思いながら、その時もそうやって精いっぱいの思いで祈りに集中していた。
 
 今は第一談話室となっている本堂入り口横の部屋が当時は事務室で、昼間私はずっとそこに詰めていたが、その事務室入り口の扉を誰かが叩いているのかと思うようなドンドンドンドンというとても大きな音が読経が始まってすぐに聴こえてきた。どなたか来客が入り口扉を叩いているのなら、事務所にいる誰かがすぐ応対するだろうとも思ったが、あのような音で扉を叩くことはあり得ないことだし、音はもっと上部の本堂後ろ側の襖の上の壁辺りから聴こえているようにも思えた。何の音だろうと読経をしながら何度も後ろを振り返り音の正体を確かめようとしたが、一緒に読経をしている十人程はどなたもそんな音など聴こえている様子もない。読経しながらあまりきょろきょろするのもいけないと思い正面に向き直し、後ろから依然聴こえて来る大きな音が気になりながら読経を続けた。そしてしばらく経った頃その音が聴こえなくなっているのに気付いた。

 「あっ、音が止んでる」と思った瞬間、高い山の道路を車で走る時などに気圧の差で耳が遠くなるのと同じような感覚で、読経してる方々の声や太鼓や木魚など全ての音が急に遠くで聞こえる感覚になった。「どうしたんだろう」そう思った瞬間、本堂内に言葉ではどう表現して良いかわからない程の神秘的で荘厳な空気が自分を取り巻く感じでサアーッと満ちてきた。「何だろう」と思った瞬間である。背中を下から上に向け幅の広い大きな物体がグオーッという霊圧と共に本堂の天井に向け駆け登った。「ああ龍神様だ」一瞬の出来事だったが嬉しくて嬉しくて更に合掌の手を強くしながら「もう一回お願いします」と願ったが、もう一回はなかった。欲張りな邪心が出たからもう一回はなかったんだろう、それにしてもすごかったな、最初に聞こえてたあの音は龍神様の御感応の前触れだったのだろうかなどとずっと考えながら一時間の読経を終えた。感応いただけた興奮冷めやらぬまま一緒に読経されてたお三方の先輩尼和尚様にその感応を話すと、「よかったねえ」と笑顔で喜んでくれ、龍王殿で龍神様の大きな目や御法体に触れたことの体験などを聞かせていただき、龍神様は本当にいらっしゃるんだという感慨の思いを改めて深めた。
 
 この体験から約四十年後の平成三十年二月、私は導師として第十一期大伝法入行者三十数名と最終節の大切な行息に向き合っていた。前行として一年を費やし、本行の一節二節も終え、いよいよ迎えようとしている大満願への足掛かりとなる大切な行息である。行場の大密殿中陣にて法息を整え、絶対の自信を持って一人目の入殿をお待ちしていたその時、経机を挟んだ向こう側の大密殿壁際上部辺りから突然「ドンドンドンドン」と壁を叩くような大きな音が鳴り響いてきた。「あっ、あの時と全く同じ音だ」「龍神様お護り下さりありがとうございます。これでさらに自信を持って行じられます、ありがとうございます」と声に出してお礼申し上げた。

 鳩摩羅什によって漢文に訳され仏教伝来と共に日本にももたらされた全二十八品からなる妙法蓮華経は重要な経典のひとつとして著名で、当山日課経典にも第二十五観世音菩薩普門品と第十六如来寿量品が説かれてあるが、この如来寿量品に「諸天天鼓を撃て 常に衆の伎楽を作す」の記述で仏様の世界を表した一節がある。

 「ああ、あの音は仏様がドンドンドンドンと天界の法鼓を撃ちならして下さっていた音だったんだ」「あの笛の音は衆の伎楽を作し法笛を吹いてくださっていた音だったんだ」と、龍神様月例祭で初めて法音を聞かせていただいてから五十年近く経って最近やっとそれに気が付いた。
 
 初心に戻るの言葉通り、真っ直ぐに純粋に仏様と向き合いながら、あの音の本質をさらに追求すべく、今は経笛としてお経の中でお経の法息で笛を吹かせていただいている。





op.28 美しい海 r06/01/30 mugen

 高知県西部の田舎で生まれ育った私は、海の思い出もたくさんある。小学校の遠足では汽車に乗って隣町の黒潮町の海によく行った。当時の黒潮町は町名改正前のまだ古い呼び名の佐賀町で、父親が同町出身の井上陽水のアルバム「氷の世界」の中の「小春おばさんの家は北風が通りすぎた小さな田舎町、僕の大好きな貸本屋のある田舎町」である。遠足では我々の地元の影野駅から土佐佐賀駅までの30㎞余りを汽車に乗った。汽車はキハ20系列のディーゼル車両で、両駅の標高差が230メートルもあり、まさに山から海に下りる感じで、途中の長いループトンネルでは皆で車両の一番前を陣取って、真っ暗な中にやっと小さく見えてくる出口の光が三日月から満月に満ちていくように見えるのをわくわくしながら見守った。佐賀駅からは駅前の街並みを抜け細い山道を海に向かって歩いて行くが、峠の小高い曲がり角に来ると突然目の前に海が輝きながら広がり、まさに海は広いな大きいなの感動だった。砂浜や岩場で貝や小魚を捕り日長のんびりと遊び続ける。遠足では折り詰めの田舎寿司弁当を母がいつも作ってくれたが、ある時箸を入れ忘れ困って先生に伝えたら、海端の木の枝を折ってお箸にしなさいと言われそうしてみたら潮風に打たれた木の枝の箸はとても塩っぱくて驚いた。
 
 その頃は無益な殺生をするなと無形大師から止められるまで、父親ら数人の釣り仲間は毎日曜日にまだ暗いうちから車で海釣りに出かけたので、その度に私も付いて行った。漁師達の、どこの海で何が釣れているという情報を元に、時には数時間もかかる隣県の海まで遠出することもあった。ハエと呼ばれた海の中の岩礁の釣り場に漁港から漁師に小型船で渡してもらうのだが、佐賀の海の黒ハエという大きな岩場の時もあれば、志和の海の小島というとても小さなハエの時もあった。ある時、満潮の時間を間違えてその小島で釣りをしていたら見る見るうちに潮が満ちて来てしまい、小島全体が海に沈み我々は今にも海中に流されそうになった。荷物を全部背負い、足を掬われないよう踏ん張り、釣り竿の先に手ぬぐいを結び付けて振りながら皆で大声でSOSを叫び、ようやく通りかかった漁船に助けられたこともあった。荒天で渡し船が大波に呑まれ転覆しそうになったこともあったが、天気さえ良ければ海での釣りはとても気分が良く、魚は釣れなくても心が洗われるような大自然の癒やしを味わっていた。大海原を眺めながら母が作ってくれた昼食の弁当を食べながら、穏やかで幸せな時を過ごした。
 
 高校生になると海岸線も走る片道20分を汽車で通った。途中の安和駅ではホームが海に面しているので汽車に乗ったまま毎日太平洋を眺めた。ここから続く旧道の海岸線は無形大師も好きで、帰省すると来客などをよくそこへ案内していた。九十九折りの岸壁に沿った狭い旧道は台風の時などは波がそこまで打ち上げるので通行止めとなったが、その旧道は地元の漁師達が鰹漁の守り神として信奉する双名島へと続く。
 
 当山に入山してからは長野県には海がないことはやはり寂しく感じた。海は見ているだけで気持ちが安らぐ大きな存在だ。窪川別院での行事などで時々帰省した時は、安和海岸に行って海を見たりしていた。
 
 東北へはなかなか行くことがなかったが、2010年春に坐禅会で渋川正秀和尚と共に初めて宮城県気仙沼市の門弟の方々を訪ねた。歓迎会もしていただき、熱心なご当地の熊谷正弘和尚ご夫妻に気仙沼沖の大島をご案内いただき、三陸のリアス式海岸の絶景も初めて眺めた。大島は位置とその大きさから気仙沼湾の平穏を守り、台風の時などは三陸沖に各地から漁に来ていた多くの漁船の避難場所になるとのことであった。そして翌2011年3月11日、気仙沼を含む東北の各地は東日本大震災による未曾有の大惨事を被る。翌四月に渋川正秀和尚と橋本妙智信女と共に門弟から集めた石油や衣類などの支援物資を車に載せ、再度気仙沼を訪れた。被害の様子は周知の通りで、我々は被災者避難所となっていた気仙沼市民会館に赴き、ご主人を津波で亡くされながら避難所の責任を遂行されていた市民会館館長のご婦人と巡り会った。お宅に伺い津波の二週間後に車に乗ったまま見つかったというご主人の枕経をあげさせていただき、その後気仙沼みちびき地蔵堂で毎年開催された被災者追善法要の折にはお宅に呼んでいただき、帰りがけの朝食をいただいたこともある。後年亡くなられたご主人のお父様の戒名を依頼いただいたりもしたが、何かお好きな言葉を色紙に書いて差し上げようと思い、お好きな言葉を聞いたことがある。少し思案されながら、こんな大変なことがあったけれども、やっぱり私は気仙沼の海が好きですと言われ「美しい海」と書かせていただいた。
 
 支援物資を運んだ帰りに東北自動車道を走りながら高速のすぐ手前まで来た津波の残骸残る広い土地で、若い自衛隊員が横一列に並び手にした長い鉄の棒で土中の被災者を捜している様子を目の当たりにした時、二万人もの命を呑み込んでしまった海の恐さを改めて感じ、それからはテレビに映る穏やかな海の景色でさえ恐くて見られなくなっていた。大切なご主人の命を奪い、多くのお仲間の命を奪い、這い上がることが出来ない程の大きな試練をもたらしたあの海がやっぱり私は好きだと言われたご婦人のとてつもなく大きな郷土愛を感じた。

 震災から十数年経った今でも私は海が恐いままだ。毎年震災の日には被災者の追善を祈りながら、いつかまた私も子供の頃からあんなにも好きだった海が今でもとても好きだと言える日が早く来てくれることを望んでいる。





op.27 恩師への感謝 r05/10/27 mugen

 無形大師の御提唱には少年時代に影響を受けた人の話しが実名で数多く出てくる。明神太吉という小学校の校長先生もそんな中のお一人だ。明神と言う名字は名字辞典で調べると全国で現在四千三百人がおられ、内二千四百人が高知県在住なのでルーツはやはり高知だろうと思う。この校長については大師や身内の我々も全員が卒業した地元の影野小学校百年史にお名前と写真を見つけることが出来た。

 明神太吉校長は明治十三年のお生まれとあるので大師より二十歳年上で、明治四十一年から大正八年までの十一年間を同校に就任、大正二年の大師達の卒業写真でのお姿は御年三十三歳ということになる。「明神校長は元々禅のお坊さんで、わしはたくさんの薫陶を受けた」と大師はよく語っていた。昭和五十六年収録の六百七十話「屋上にて御老師様を囲んで」では、東京で開かれた全国の小学生の雄弁大会で二位となり、同行の津野村長と明神校長から「小学校の次期児童会長はお前だ」と言われたと、まるで昨日のことのように述懐されている。

 児童会長というのは私にも懐かしい響きがある。大師のように弁論大会の経験はないが、小一の時に目の調子が悪く通っていた町医者で診察を受けている自分の様子を描いた絵が学校で唯ひとり県展の特選に入ったことがあるが、そんな些細なことがきっかけで何らかの自信を持てていたのかもしれない。小五で児童副会長、小六で児童会長を仰せつかった。大師のような校長先生との接点は無かったが、小四の授業中に教室の机に入れてあったカマキリの卵から無数の子カマキリが生まれ、放課後校長先生に呼ばれ褒められたことが一度あったきりだ。小学六年間の何人かの校長のお一人の顔も覚えていないが、その分担任の五人の先生方のことは良く覚えている。
 
 小一小二と担任だった土居幸先生は、私の神経質な性格を早くからお見通しだった。何をするにも慎重で丁寧すぎることは自分でもわかっていたが、たまたま帰省されていた大師が受けてくれた家庭訪問でも欠点としてそれを先生から指摘された。春と秋に汽車で長いループトンネルを抜けた隣町の海への遠足は先生との楽しい思い出だが、駅から歩く長い曲がりくねった坂道を抜けた瞬間目の前に広がる太平洋の眩しさは、小さな殻から自分を解放することの大切さを感じさせてくれた。当山に入山したばかりの二十歳の某日、郷里の良寛研究会のお集まりが旅の途中に当山を訪ねてくれたことがあった。同郷のよしみで本堂屋上から善光寺平などを説明していたら突然土佐弁で「こうちゃんやろ?」と駆け寄ってくれたご婦人が居られた。何と本堂屋上での土居幸先生との十数年ぶりの再会だった。 

 三年時の担任の横畠有幸先生は音楽の先生でもあった。先生の弾くオルガンに合わせ「夕焼け雲」の輪唱を習ったが、先生の艶のあるバスの歌声は素敵だった。怒るととても恐く、今でこそコロナで黒いマスクは良く見たが、当時先生はもう黒いマスクを付けておりそれがまた威圧的にも感じられ、授業中にふざける我々を大声で怒鳴り、頭を小突かれたりもした。この頃私は些細な事がきっかけで友達に切れ学校を飛び出したことがある。翌日ばつが悪く学校にやっとの思いで行ったが、先生からどんなにか怒られるだろうと思っていたら、ひと言しっかり注意をされただけで安堵した。先生と級友のやさしさが心に染みた。この先生も入山した頃にご夫婦でわざわざ高知から当山に私を三度も訪ねてくれた。私の動向がよっぽど心配だったのだろう。学校を飛び出したことをその時お話ししたかは覚えてないが、坐禅をお教えしながら、これでやっと人生の借りを返せたと思った。
 
 四年時の担任西田賀代子先生は横畠先生と同じく、植物学者牧野富太郎博士と同じ高知県佐川町のご出身だった。算数の宿題にまだ教わってない分数の足し算が出たことがあって、解き方のわからない私は母に教わりながらやっと宿題を仕上げたが、翌日先生はまだ教えてないことを宿題に出してしまったと皆の前であやまり「こうちゃんは出来ちゅうき校庭で遊んできいや」と言われ、得意げに校庭に遊びに出たが、一人で校庭に居ても何も楽しくないと思いながら退屈なその時間を過ごした。同じ四国は小豆島ご出身の作家壺井栄の「二十四の瞳」は有名だが、我々も男六人女八人の「二十八の瞳」といったところだったが、校庭の築山で先生と一緒に撮った集合写真は朝日が眩しくて、二十四の瞳の集合写真を彷彿とする。
 
 五年時の担任市村照美先生は大人になってからもずっと長く交流させていただいた。ご主人と一緒に数回当山を訪問いただいたが、定年で教職を離れてから始められたというパソコンやネットを通しての交流では、趣味で回られた世界旅行の写真もたくさん送っていただき、お寺のホームページで紹介させていただいたりもした。中でもヒマラヤ周遊時の写真は印象深く、今でも全て大切に持っている。管長就任時の白銀様大祭では、小学校入り口にある地元の集会所で開催した祝宴にも来て下さり、長きに渡る我が師の恩である。
 
 六年時の担任又川勉先生は体育も得意な先生で真っ白なトレパン姿でソフトボールやサッカーなどたくさんの球技も教わった。この六年時には他校の修学旅行先での船の事故が影響し、修学旅行やスポーツ対抗試合が制約されたが、そんな中でも先生は一生懸命に我々を学業やスポーツに導いてくれた。卒業式後みんなで汽車に乗って先生宅を訪ね楽しい時間を過ごしたことも良い思い出だ。 

 そんな思い出の空間に私はよく浸っている。世界人口が現在約八十億人と言われ、人類が地球上に現れてからの世界総人口は千八十億人と言われるが、人はいったい一生の内に何人の人と親しくなりそして別れも繰り返すのだろうか。人との巡り会いの中で学ぶ心さえ内にあれば万物は皆我が師ではあるが、やはり縁深い人との妙縁はことさらに尊く思われる。
 
 最後に無形大師の恩師のひとり明神太吉校長先生作なる「仁井田北尋常小学校々歌」を抜粋し、この仏縁への感謝の意を表したい。
 
    歴史の流れ浅けれど 生ける働き君見ずや
    学びの庭は狭けれど 望みは広し千万里  
    揺籃(ようらん)の土地ここなるぞ
    奥つ城(おくつき)所 ここなるぞ
    天には栄光輝きて 地には平和の光あり
    権現の真高くして 中筋川の水清し
    春は花咲く梅桜  秋は綾織る蔦紅葉

 




op.26 中国仏教と朝鮮仏教について r05/06/30 mugen

 禅の修行を深めて行く中で、仏教史等の概要を知ることは意義深い。今回は中国と朝鮮仏教の変遷について管長教学ノートより抜粋し復習したい。

○中国仏教
 中国仏教は中国に伝来して以来、中国の伝統思想から多くの批判を受けながらもその形態を中国に適応させて仏教の本来性を保持発展させたもので、中国文化の諸領域に深い影響を及ぼし国民生活をも支配した面からは、中国の思想や信仰史とも見られる。しかし教理の発展や組織の面から言えば日本仏教がその源を直接中国に求めなければならないばかりでなく、インド仏教史は中国仏教の知識を離れて把握しにくい点、即ちインド仏教を知る資料が殆ど漢訳仏典に保存されているのみでなく、むしろ教理や組織の流れが中国に注ぎ込まれた面に於いて意義があり、つまり他地域の仏教との関連に於いても重要な面を持っている。

 仏教の中国への初伝は前漢の紀元前2年や後漢の紀元65年などとされ異説も多いが、一世紀後半から西域地方の僧が来て帝王貴族の庇護の下に都から地方へと伝播したのが事実のようで、後十数世紀に亘って中国の固有思想や歴史社会との対立、論争、適合が行われて、中国人の思想にまで融け行ったものである。しかし初期には中国の民族性と類似の面から受容された模様で、仏陀を皇帝や老子と並べ祀られ、仏教は呪術や神秘的力による神仙道のひとつと考えられた。
 
 4世紀頃から仏教の理解を中国思想で表現し、空を老荘の名で解釈するような格義仏教が行われたが、この間にも仏教をあくまで他国思想として中華の自尊心と固有の倫理道徳から、仏教の「家を捨てる」などの現世否定的な一面に対して種々の批判が加えられ、これらに関する論争や中国で偽作された経典や中国向きの仏教書が作られるなど、仏教の自己弁護が10世紀頃まで活発であった。一方伝来当初から王朝の庇護の下に普及した仏教は歴朝に教界統制官の僧が任命され、官寺が次々と建てられるなど国家との結びつきが強かったが、仏僧は国家権力の外にあるとして王権を拒否しようとする面があり、また三武一宗の法難に代表される仏教迫害も皇帝の手によるものだった。

 このように伝統思想や歴史社会との対立、抗争、調和、融合の繰り返しのうちに中国思想と仏教の調和や儒道仏三教の一致説が生じ、宋代以後は大体に於いて仏教は中国社会に溶け込んで、中国思想の中核部分を成すに至った。中国仏教の展開を内部から見る時は紀元400年頃までを経典の翻訳や中国思想による理解の時代と一応の区分が成され、鳩摩羅什の漢訳を機として仏教本来の研究の時期やそれに伴う学派発生の時代とされ、歴史的に発展したインド仏教が偶発的に伝来した為、その整理体系付けの為の教相判釈が行われるなど、次代の随唐仏教の準備期とも言われる。
 
 この時代に成立した学派は随代に至って折衷化されたとして一時期を画する説もあるが、一般には中国人の理解と実践に於いて仏教の本来性を実現した言わば中国人の仏教の形成時代と見られ、三論、天台、華厳、法相、密教、律、禅、浄土などの宗派あるいは法系が確立した時期である。
 
 唐来以後中華民国までは祖述持続時代とされるが、中国思想との融合が学問的にも深化し民衆にも浸透して、大蔵経の開板印刷など仏教文化が盛行した時代で、後には仏教は主に教と禅の二系統に理解されるに至り、教禅一致の説も出て日本のような宗派別の意識の少ない仏教となり現在に至っている。


○朝鮮仏教
 朝鮮には朝鮮三国時代に仏教が入った。高句麗には372年、百済には384年、新羅には400年代に高句麗の僧が伝えたという。仏教の教えはその中の新羅に最も栄えて唐またはインドにまで求法する者が多く、華厳、法相、禅を伝え、新羅統一時代末期には九山禅門がほぼ成立した。高麗の諸王は多く仏教を信じて仏事が繁く、大蔵経の開版二度にまでも及んだが、その後教団に弊風が起こり、しばしば制限が加えられるようになり、末期には儒家による仏教廃物論も行われた。

 当時の教系は五教両宗と総称され異説もあるが、五教は戒律、法相、涅槃、三論、華厳、両宗は曹渓(禅)と天台である。李朝では一般に儒教を尊び仏教を制限し、特に燕山君(よんさんぐん)以降の時代に至って仏教は滅亡に瀕したが、日本からの豊臣秀吉による1592~98年に2度に亘って企てられた朝鮮への侵略戦争である壬辰倭乱(じんしんわらん)で西山大師休静は僧兵を徴して国難を救い、ために教団はやや復興し西山大師の各門下は各々一派を成し、それらの法統が現在にまで及んでいる。前世紀末に僧徒の京城に入ることが許され、昭和16(1941)年には朝鮮仏教の総本山として京城に韓国仏教太古宗が設けられた。

 余談ではあるが太古宗の在日総本山金剛寺は当山北アルプス別院と同じく安曇野市の有明に在り、かつて私も興味深く何度か参拝したことがある。その中の大きな建物は大雄殿と称されており、無形大師が当山に建立された大伽藍に大雄殿と命名されたことの由縁を感じたことだった。





op.25 開山80年にあたり -1枚の写真から- r05/01/27 mugen

 物心ついた頃から見ていた古いアルバムに、他の写真とは雰囲気の違う一枚の写真があった。郷里の実家の隣町にある母の生家の縁側で撮ったもので、前列に無老和尚様、母方の祖母兄弟、父に抱かれた私の横に母。後列に母方の祖父と曾祖父夫婦、中央に父方祖父の無形大師が座している。この時の記憶は私にはないが入山し寺歴を知るようになり、これがどういう時の写真だったのかがわかってきた。

 昭和33年4月13日、無形大師は島根県安来別院の開山式を終えられ、続いて郷里の高知も訪れている。写真はその時に私の母の生家も訪ねられた時のものだ。無形大師57歳、同年警察官の仕事を辞され当山に入山されたばかりの無老和尚様は29歳。和尚様は後年「伺う先々の親戚のお宅で、皿鉢に大盛の鰹と土佐の郷土料理をもてなしてくれるものだから、そのうちにあっさりとしたお茶漬けが食べたくなったものだよ」と、この時のことを懐かしく語ってくれた。写真後列右から二人目の中学の校長をしていた母方の祖父は、氏神を祀る神祭の日などには庭に出した大きなテーブルで皿鉢料理を上手に作る人だったので、この時もそうやって遠来の佳客をもてなしたことだろう。父は35歳で、3月生まれの私は1歳の誕生日を迎えたばかりということになる。実家近くの天ヶ谷で白銀様の御墓石が発掘され本山に御遷座された御法縁もこの時だ。長野から島根経由の長距離管長車を運転されたのは御年38歳の高木徹元和尚様だったので、この写真も徹元和尚様がシャッターを切られたものと思う。またこの時は当時本山副住を務められていた西沢無上和尚様の坐脱の報を受けられ、大師御一行は急遽長野に戻られ、5月9日に本山葬を営まれている。この時の写真を見ると本堂は現在の鉄筋建てになる以前の物で、無形大師を始め当時参禅されていた方々の往事の様子が伺える。
 
 昭和18年、無形大師が42歳で大峯禅林延命山無形庵として当山を開山されてより15年、昭和29年に単立宗教法人活禅寺として宗教法人格を得られてより4年、昭和31年19名の入行であった第三期大伝法より2年後。この1枚の写真には当山のそういった時代背景が見える。

 また個人的なことになるが、私の記憶にある本山との最初の接点は小学校に上がる前に謝恩会に来た時のことだ。まだ新幹線もない時代で父と親戚の叔父達と総勢5名での長旅、今は考えられないことだが満席の夜行列車の床に新聞紙を敷いて寝かされたりもした。初めて泊まったお寺の部屋で朝目が覚めると誰もいなくて大泣きをした。父達は朝課に出ていたのだろうが泣きながら部屋から外に出て、上の建物を見上げた時に父の姿を見つけさらに大泣きした。入山してから善光寺裏手の蓮池前で撮ったその時の謝恩会の記念写真を見つけ、最前列で父と共に写っている自分を見つけて驚いたこともある。小学校に上がってからは毎年1~2度帰省される無形大師と会えることがほんとに待ち遠しかった。帰省の日にちがわかると一週間も前から日に何度も道路に出て、大師の黒い車が見えた時のイメージトレーニングをしていた。1学年2学年と続けてちょうど家庭訪問のタイミングで大師が帰省されていて「家庭訪問はわしが出る」と言われ担任の訪問を受けていただいた。「先生がとても褒めていたぞ」と褒められ「お前はやれば出来る男だから大きくなったら長野に来い」と帰省の度に言われるようになったが、やれば出来るとはどういうことなんだろう、何をやれば何が出来るのだろうとその時からずっと考えていた。

 高校生になって大師の帰省に合わせて窪川別院でも第8期大伝法の前行が行われていた。毎朝のお経と坐禅と大師の御提唱。高校が休みの日曜日の朝、私も別院の一番端に坐して大師の御提唱をお聴きした。その時の「真孤独」という内容の御提唱は胸に槍を突き刺されたような痛いほどの感動を以て深く心に響いた。坐禅が終わって大師に呼ばれ、立たれて背中を向けたまま「お寺に来るか」と言われ「お願いします」と返事を返した。
 
 物心ついた時からずっと見ていた1枚の写真からこの坐禅の時までの10数年の歳月が、大きなひとつのシーンとして私の心中にずっとあり、そしてそれは今も変わらず、大師との大切な以心伝心の思い出の時間である。

      



op.24 命の流れ -吉野にて- r04/10/27 mugen

 近年の豪雨災害の多さを象徴するような、大きな台風がいくつも日本列島を襲ったその年の夏だった。某家和歌山在住のお父様が亡くなり葬儀の導師を頼まれ、折しも関西を直撃していた台風の進路を気にしながら中央東名経由の高速道路を西に向かっていたが、東名阪道三重県四日市インター手前で通行止めとなり、ナビを頼りに一般道を奈良県経由で和歌山を目指すことにした。
 
 前に他所でも同じ印象を受けたことがあるが、高速道から一般道に下り、山手の落ち着いた昔ながらの風景に出会うと、郷里で過ごした子供時代にタイムスリップしたような懐かしい空気感に包まれることがある。この時もまさにそんな印象を受けながら初めて通る奈良の山手を走っていた。
 
 夕刻前に吉野川沿いに低い家並みの続く吉野の町に出た。この時の台風は吉野川上流の地域にも酷い痕跡を残しており、吉野川は穏やかな吉野の里の印象とはほど遠い荒波立つ真っ黒な濁流と化し、沿線の家々を今にも呑み込んでしまいそうな恐ろしい形相で、落ちたら必ず死ぬだろうと思った。国道はガードレールを挟み川に沿って和歌山に向けて延び、吉野川は和歌山県に入ると紀ノ川と名を変える。台風渦中での人や車の少なさを実感しながら近鉄吉野線下市口駅の案内標識を見つけとても懐かしいことを思い出していた。
 
 入山して間もない頃、祖父無形大師から「入院して寂しい思いをしている実妹の見舞いに儂の名代で吉野の病院を訪ねてほしい」と依頼されたことがあった。大師の二人の実妹のうちの一人が吉野に嫁ぎ、体調を崩し現在入院中だが、四方を白い壁に囲まれた無機質な個室の病室でひとりテレビもなく寂しい思いをしているから、小さなテレビを持参しテレビが見られるようにしてやってほしいとのことだった。幼少の頃に会ったことのあるかすかな記憶を頼りに大叔母を電車で京都から近鉄に乗り換え見舞った。
 
 テレビは粉河別院のお弟子さんが用意してくれ、八木勝宝さんと山本勝堂さんが下市口駅まで車で迎えに来てくれ病院まで送ってもらい、その晩は粉河別院に泊めていただく手はずになった。この時も初めての電車の行程でもあり少し心細かったが、無事下市口駅に到着し改札を出るとお二人が笑顔で出迎えてくれた。病院に着きお二人は気を使って病室には入らず廊下で待機してくれていたが、おかげで無事大叔母との再会と見舞いとテレビの設置を終えた。大叔母はもう殆ど声も出せない状態だったが、私の来訪を静かに喜んでくれた。それから一年ほどで大叔母は亡くなり、今度は無双前管長と二人で吉野郡天川村の大叔母宅での葬儀に大師名代として客僧で参列し、大師と親交のあった大峯本宮天河大弁財天社宮司柿坂氏のお宅で泊めていただいたりもした。その一連の時のことを走馬灯のように思い出していた。
 
 吉野の低い町並みに沿って流れる吉野川の濁流は相変わらずで、流れを見ながら運転しているとふと大きな命の流れを感じた。大自然のこの濁流も大自然の命そのものであり、あの時見舞った大叔母の命も、そしてそれを私に託した大師の命も大きな命の流れの中で今はもうここには存在しなく、そして今自分は門弟のお父様の今生での命とのお別れに向かっている。大自然の命も人の命も大きな命の流れの中にある。そんなことを思いながら和歌山県に入り紀ノ川と名を変えた濁流と共に目的地に漸くたどり着いた時にはもうすっかり暗くなっていた。
 
 お通夜には間に合わず門弟自らにお父様の通夜導師を委ね、翌日葬儀一連のことを無事に終え、別の法友ご夫妻が慰安の食事をと誘ってくれた。実はこの約一年間、某門弟子女の第一子出産に向け彼女からの時々の近況報告を受け励ましたり祈りを続けたりしていた。多い時には一日に何度も連絡を寄こしていた彼女からここしばらくは連絡が途絶えており、予定日が近かったこともありすごく気になっていた。落ち着いて食事をいただく気分になれなかったので食事の前に彼女に電話をしたが通じない。その時「ああ今産まれている」と直感しその約三十分後に彼女のお母さんから電話が入り「ちょうど先ほど管長から着信のあった時間に無事男児を出産しました」とのこと。安堵しながらもまたもや大いなる命の流れを感じざるを得なかった。





op.23 初めての山中徹夜禅 r04/06/30 mugen

  北アルプス別院のある安曇野市穂高有明一帯は、明治時代初期より山岳部隊として名を馳せた帝国陸軍歩兵五十連隊の演習地があった場所で、終戦後は大陸からの引き揚げ者などの入植により広く開拓された地だと聞く。私が高校卒業後入山して初めて行った頃の別院は、カラマツ林の中にひっそりと立つ二階建ての簡素なプレハブ造りだった。前年の昭和49年から50年にかけての第8期大伝法では、別院裏のカラマツ林に作務で手作りした舞台で緑陰禅を行ったことを伺ったり、キャンプさながらのドラム缶風呂もまだ残っており、機に応じたまさに自然と共に在る大らかな活禅の修行風景を感じ心豊かな気持ちになった。
 
 郷里の高知で子供時代に、毎年1~2度帰省された無形大師に随行の若い修行の方々が男女を問わず「今日は君がお地蔵様で徹夜の坐禅をしてきなさい」の大師の言葉を受け「はいわかりました、行ってまいります」と何の躊躇もなく昼なお暗く薄気味悪いあのお堂で、しかもひとり徹夜で坐禅をしてくることに驚きと畏敬の念を抱いていたが、ここ北アルプス別院でも同じような徹夜の坐禅修行が行われていた。
 
 別院からさらに山手に数キロ入った所に有明山神社という信濃富士の別名を持つ有明山を御神体とする山岳信仰の神社がある。そこから細い山道をしばらく歩いた岩肌険しい山中に「魏石鬼の岩屋(ぎしきのいわや)」という魏石鬼八面大王という鬼がかつて立てこもったとされる横穴式の石室古墳がある。この古墳の石室内で徹夜の坐禅を行じるというのだ。私はそこにはまだ行ったことがなく、無形大師や先に徹夜禅を行じられた先輩方の話しを興味深く聞いていた。

 かつて演習地という戦争がらみの土地だったことが要因するのだろうが、当時の別院には「亡霊がよく出る」という話があった。ただでさえ重いプレハブの引き戸が誰もいないのにスーッと開いたり、外のトイレを使用中に誰もいないのに外から鍵が掛けられることがよくあるというのだ。かく言う私も外作務の時に入ったトイレで誰もいないのに外から鍵が掛かり、大きな声で先輩を呼び開けてもらったことがあった。本堂でひとりお経を詠んでいる最中に見知らぬご老夫が読経に加わりそして去られ、実はその日はどなたも参禅者がいなかったことを後で知り驚いたこともある。
 
 そして徹夜禅を行じる魏石鬼の岩屋も「必ず出る」というのだ。無形大師は楽しそうに笑いながらそのことをよく話しておられた。私はさほど恐いとは思わなかったが「きっと出るのだろう」とは思っていた。そして根拠は全く無いが、この徹夜禅を行じ抜いた暁にはお釈迦様が得られたご心境のような得も言われぬ素晴らしいものが得られるんだろうと思い込み、行じるのが楽しみで仕方がなかった。その日が近ずくにつれその思いはさらに強くなり、早く行きたくてたまらなくなっていた。そしていよいよその時がやってきた。
 
 夕方暗くなる前に先輩に車で有明山神社まで送ってもらい、その後歩きで岩屋まで連れて行ってもらったが、道中は狭い山道の両側に苔蒸した石塔が幾塔も並べられ、おまけにタイミング良く小雨まで降り出し、いよいよ怪しげな雰囲気が漂ってきたと思っていた頃、岩屋の上に建つ美しいシルエットの観音堂が見えてきた。
 
 お扉に大きな錠前の掛かった観音堂を正面からお詣りし、雨に濡れた石段を滑らぬよう気をつけながら下り岩屋の入り口にたどり着いた。「じゃあ、がんばって」笑顔の合掌で見送ってくれた先輩に「ありがとうございます」と合掌で答え、鉄格子の小さな扉が立てかけてある間口の狭い入り口から潜り込むようにして岩屋内に入った。大きな一枚岩の天井は背を丸めないと立てない高さで、広さは二畳半あるだろうかと思うほどの狭さだ。持ってきた懐中電灯で照らすと奥まった所に行者の痕跡であろう小さな燭台が横たわって置いてあった。蝋燭は持ってこなかったので持参した小香炉に線香を立てた。

 住居地を遥か越えた山中の岩屋内は真っ暗闇で、目が慣れてきても見えるのは黒の闇のみといった感じだ。立てた一本の線香の灯りがこれほどまでに明るかったのかと驚き、無形大師が言われた「黒漆の崑崙、夜裏に走る」の公案を思い出していた。闇の線香の赤い一点は無作為に定まらぬ方向に常に動く、そんな眼の錯覚も覚えながら敷いたゴザの上の円座でいつもの坐禅に入った。その時私はまだ21歳で9期大伝法入行以前だったので行衣は白衣のままだ。

 暗闇の恐さよりもあの小さな入り口から野犬か何かが入って来たら逃げようがないことの恐さも感じながら座り始めた。夜7時から明朝6時まで座ったとして11時間の坐禅だ。途中何度か手足を伸ばして養身を入れながら数時間はとても良く座れたが、夜半を迎える頃強烈な眠気に襲われた。入洞する前に降り始めた雨は雨足を強くしそのまま降り続いており、ザーザーという規則的な雨音は眠気に拍車をかけ心地よくさえ感じていたその時、来た時に見た大きな錠前の掛かった観音堂の扉が「バタン」と大きな音を立て、同時に「バタバタバタバタ」と小走りに雨の石段を駆け下りてくる何者かの足音を聞いた瞬間に息を止め自分の所在を隠そうとしていた。

「命を取られた」と観念し、相手は何者かを考える余裕もなく、ただ身を守るために無意識に息を殺していた。当然もう眠気がどうのこうのの騒ぎではない。さらに息を殺しながらぐっと身を構えたが結局その後何もなく、約束してあった先輩の迎えの時間までの数時間を「あれは何だったのだろう」と考えながら座った。夜が明け先輩が迎えに来てくれ、昨夜と同じように錠前がしっかり掛かっていることを確認しながら観音堂を礼拝し別院に戻った。
 

 徹夜で座り込んだ翌朝は期待していた得も言われぬ心境は全くなく、眠かったことの不甲斐無さを反省したが、ただ一応ではあるが無事にやり終えたことの達成感と、不思議な体験をした余韻が強く残り、別院に作務に来ていたおばさま方の「おつかれさま」の笑顔の合掌にとても癒やされていた。





 op.22 延命地蔵尊の御開眼 r04/01/29 mugen

 お釈迦様が忉利天(とうりてん)に行かれ、そこにおられるお母様にお地蔵様のことをお話になる。そうすると、観世音菩薩をはじめ、あちこちから仏様や山や河の神々や、人に危害を加える恐ろしい鬼たちまでが集まり、共にお釈迦様のお話をお聴きする。地蔵菩薩本願経はそのご様子を顕したもので全二巻十三品からなり、見聞利益品偈はその総まとめともいうべき箇所で、お地蔵様のありがたい御利益が説かれる。

 吾観地蔵威神力(ごかんじぞういじんりき)
 われ地蔵菩薩の威神力(いじんりき)を見るに、

 恒河沙劫説難尽(ごうがしゃこうせつなんじん)
 恒河沙劫(ごうがしゃこう)に説くとも尽くし難し。

 見聞瞻礼一念間(けんもんせんらいいちねんけん)
 見聞瞻礼(けんもんせんらい)すること一(いち)念(ねん)の間もせば、

 利益人天無量事(りやくにんでんむりょうじ)
 人天(にんでん)を利益(りやく)すること無量の事あらん。

 若男若女若竜神(にゃくなんにゃくにょにゃくりゅうじん)
 もしは男、もしは女、もしは竜神、

 報尽応当堕悪道(ほうじんおうとうだあくどう)
 報尽(ほうつ)きてまさに悪道に堕(だ)すべきも、

 至心帰依大士身(しいしんきえだいししん)
 至(し)心(しん)に地蔵菩薩大士の身に帰(き)依(え)せば、

 寿命転増除罪障(じゅみょうてんぞうじょざいしょう)
 寿命、いよいよ増して罪(ざい)障(しょう)を除かん。

 少失父母恩愛者(しょうしつぶもおんあいしゃ)
 幼くして父母の恩(おん)愛(あい)を失わん者、

 未知魂神在何趣(みちこんじんざいかしゅ)
 未だ魂神(こんじん)いずれの趣(しゅ)にありというを知らず、

 兄弟姉妹及諸親(きょうだいしまいぎゅうしょしん)
 兄弟、姉妹および眷族を、

 生長以来皆不識(しょうじょういらいかいふしき)
 生(せい)長(ちょう)よりこのかた皆(みな)識(し)らざらんも、

 或塑或画大士身(わくそわくぎゃくだいししん)
 大士の身を、あるいは土にて造り、あるいは画(えが)き、

 悲恋瞻礼不暫捨(ひれんせんらいふざんしゃ)
 悲恋瞻礼(ひれんせんらい)して、しばらくも捨てず、

 三七日中念其名(さんしちにちちゅうねんごみょう)
 三七(さんしち)日(にち)の中、その名を念ぜば、

 菩薩当現無辺体(ぼさつとうげんむへんたい)
 地蔵菩薩まさに無辺の体を現じて、

 示其眷属所生界(じごけんぞくしょしょうかい)
 その眷(けん)属(ぞく)の所生(しょしょう)の界を示すべし。

 (地蔵菩薩本願経見聞利益品偈より抜粋)


 
 当山本堂入り口のお地蔵様は延命地蔵尊と命名され、昭和四十八年八月開催の夏安居初日に御開眼された。台座裏側には「開眼の法主大本山活禅寺第一世管長徹禅無形大和尚」「奉納之施主和歌山県粉河町西村大仁居士」の朱の刻印が今なお色あせることなく記されている。「昭和四十八年七月吉日」と記してあるのは像立完成時の刻印なのだろう。この時の夏安居は私には三度目の夏安居で、高校二年生になっていた。十日間の夏安居だったが郷里から共に入行していた年下の従弟が寝不足と緊張もあったのだろう、この御法行中に倒れてしまうアクシデントが起きてしまった。今で言う熱中症だったのだろうが、従弟は少し休憩し体調を取り戻し幸い大事には至らなかったが、そのことも感慨深い思い出のひとつである。
 
 本堂玄関前に造立されたお地蔵様の周りを囲むように参列した我々の立ち位置は、お地蔵様裏側の石段を数段登った所で、お地蔵様を後ろから拝み、導師の無形大師とは向き合う形になっていた。石や木で造られた仏像を御開眼するとはどういうことなのか、またどうすれば御開眼つまり木仏石仏にお魂を宿らせることが出来るのだろうかと、その後入山してからもずっと考え続けた。門弟宅の御本尊であったり、吉祥招福の大黒天像であったり、また穏やかな風体の御仏像とは一線を画した彩り鮮やかな迦楼羅天像であったりと、無形大師による御開眼の様子を数多く拝見しながらも、さらにそのことをずっと考えていたが、この延命地蔵尊の時が「御開眼とは」を考えた最初の時だったと思う。余談になるが先年滝田正叡居士御造像の東日本大震災被災者供養の気仙沼みちびき地蔵尊を御開眼させていただいた時は、この時からずっと温め育んできた万感の思いと行法を以て自分自身では初めて御仏像の御開眼をさせていただいたことだった。
 
 この時の夏安居ではお地蔵様の種字を書かれた額入りの大色紙を無形大師よりひとりひとりが授かった。私もそれを大切に家に持ち帰り、部屋に掛け毎日種字と向き合っていた。

 高校を卒業し入山してから間もなくのある夜、真っ赤に燃えたお地蔵様が夢枕に立たれたことがある。また当時の事務所は本堂玄関横にあり、毎日この延命地蔵尊の横顔を拝しながら事務所勤務を過ごした。プロの石工さんもお地蔵様を造る時は型があるわけではなく、ご一体ごとのお姿を至心に作り上げていくという話を聞いたことがあるが、この延命地蔵尊もまことに穏やかで美しいお顔をされている。
 
 御開眼より五十年近くが経ち少し苔むした感もあるので、暖かな次の春を迎えた頃にでも初めての御灌仏をさせていただき、さらなる御法縁の広がりに繋げたいと考えている。



op.21 寿司の話 r03/10/27 mugen

 寿司といえば握った酢飯の上にネタの乗った江戸前寿司を連想するのだろうが、長野で食べても江戸前で、そして「江戸寿司」ではなく「江戸前寿司」なのは何故だろうと思ったことがあった。

 私は物心ついてから高知の郷里で食べていた寿司は巻き寿司のみだった。高知には昔から「お客」と呼ばれる文化があり、冠婚葬祭や神事、節句などでは親戚や近所の多くの人が集まり、無礼講のように賑やかで長い時間をかけた宴席がよく設けられた。お祝いごとならばわかるが葬式で悲しい時にもどうして賑やかに酒を飲むのだろうと子供心に思うほどに、宴席はいつでも夜遅くまで続いた。宴席での酒は燗の日本酒で、裏方のお勝手で準備に追われる母達女性陣はとても忙しそうに見えた。宴席の料理は生のカツオとたたきと巻き寿司の乗った土佐の皿鉢料理が必ず並んだ。

 皿鉢は直径4~50センチの有田や九谷などの大皿で、一枚二枚と数える。一枚目には生のカツオの刺身、二枚目にはカツオのタタキ、三枚目には巻き寿司の土佐の田舎寿司といった具合いで、カツオの皿には真ん中に醤油ダレの入った湯飲み茶碗が置かれ、銘々が箸で取ったカツオの切り身を茶碗ダレに漬け銘々皿に取って食べた、醤油をいちいちかける手間を省いたのだろうが、さすがに衛生面でのこともあったのだろう、いつの間にかそれは見ることがなくなった。

 最近ではタケノコやミョウガなども使うようだが、当時の巻き寿司は海苔、昆布、卵巻きの三種で、海苔巻きと卵巻きにはかんぴょうやキュウリやゴボウなどの具が作り手の好みで中心に入る。寿司の皿鉢には自家製の寒天ヨウカンとあんこのヨウカンも添えられ、お頭にまで酢飯を詰められたサバの姿寿司が入ることもあったが、お頭が不気味で閉口した。宴席のある家では庭先に出したテーブルで、家族総出で忙しげに皿鉢の仕度をしている光景がよく見られた。 そんな風習の中で生まれ育ったので、その時まで握った酢飯の上にネタの乗った江戸前寿司は一度も見たことがなかった。
 
 中学一年で初めて入った十日間の夏安居をやっと終えると、すぐには郷里に帰らなかった従兄弟と私を、当時善光寺横手の東之門通りで「おとめ寿司」を営まれていた亀田徹了和尚さんが「寿司を食べに来いや」と呼んでくださった。修行から開放されたくて寺から外に出たかった我々は大師の許可も得、喜んでお誘いを受けた。東之門のその辺りは火災で消失してしまったが少し前までは当時娯楽の花形であった映画館があり、人通りも賑やかでお店もとても繁盛したそうで、その時も若いお弟子さん達が忙しそうに働いていた。訪問した我々を徹了和尚さんは満面の笑みで大歓迎してくださり、カウンター席に座らせた我々に「さあ食べろ食べろ」と言って次から次へとたくさんの寿司を握ってくださった。

 寿司は郷里の巻き寿司しか見たことも食べたこともなかったので、握った舎利の上に色んなネタの乗った寿司は「珍しい寿司だ」と思った。そして店先に掛かる「おとめ寿司」の暖簾に書かれてあった「江戸前」の文字を見た時、長野で食べても「江戸前」なのかと思い、重ねて「江戸寿司」ではなく「江戸前寿司」なのは何故かの疑問はあったが、口を休める暇もなく次から次へと握ってくれるので食べることだけに必死だった。美味いとかどうとか思う余裕もなく、涙目になるほどにただ食べなければいけないことに必死になってしまった。子供だから断ることが出来なかったのだ。結局数十貫もいただいてしまったのだろう、もう絶対無理だと思う限界にまでついに到達してしまった、最初に出してくれたコーラを飲んでしまったのもいけなかったのだろう、気持ち悪くなり「もういいのかい」と相変わらずの笑顔の徹了和尚さんとお店の人にも挨拶をして、やっと店を辞することができた。若いお弟子さん方もみなさん笑ってられたので、よっぽど食べたのだろうが、食べ過ぎでとにかく気持ちが悪い。

 店の前の通りに出、わずか数歩歩いた時に我慢ができず口から大量に飛び出させてしまった。ただのゲロではない、舎利とネタがまるで機関銃のように飛び出てくる。それは少し前に好きなポップコーンを食べ過ぎた時も同じように経験済みだったが、人間ひもじい時も辛いが、逆の時もとても辛いのであり、それから開放された時の安堵感はまさに得も言えなくホッとする。ただ、一度吐いただけではまだかなり残ってる感覚があり、先に少し歩いた善光寺の参道で二度目三度目の機関銃をやってしまった。
 
 高校卒業後入山してからは、おとめ寿司で毎日用意してくださる無形大師のご夕飯を受け取りに行ったり、晩年はお住まいの引っ越しを一緒にさせていただいたり、新潟県瓢湖まで白鳥の写真を撮りに行ったり等々、また亡くなられた時はご自宅で葬儀のお経も詠ませていただき、徹了和尚さんとは深く長いお付き合いをさせていただいたが、今もお店のあった場所を通りすぎるたびにあの時の寿司を思い出す。
 
 そして大師のご夕飯を受け取り店を辞する私に向かい直立し合掌され、車が見えなくなるまで見送られたお姿がいつもよみがえる。





op.20 四国巡りバスの旅 r03/06/30 mugen

 祖父無形大師との子供の頃の記憶は、遠く離れて暮らしていたのでそう多くはないが、その分とても鮮明に覚えている。子供の頃は誰もがそうであるように私も将来の自分をよく想像したが、そんな時にも祖父の大きな存在が常にあった。そんな祖父との思い出は心の中の映像ばかりだったが、数年前に先輩和尚さんからいただいた八ミリフィルムではそれが実際の映像としてよみがえった。

「四国巡りバスの旅 御老師様の故郷を訪ねて 昭和43年3月4日~9日」と記された無声カラー30分の映像を見ながら、ずっと心の中で思い出していたあの時の様子を感慨深く映像で見ることが出来た。

 昭和43年の日本の高速道路は、一部開通していた東名高速と中央自動車道に愛知県小牧インターから兵庫県西宮インターまでの名神高速がつながり始めた頃である。本四架橋経由の高速道のみで長野高知間七百数十キロを10時間程で走破出来る現在と違って、当時は倍の20時間はかかっていたのではないかと思う。
 
 映像は本山出発前の場面から始まる。旅行に参加されたのは無形大師と侍者の無瞋尼様を始め、男女の門弟総勢20数名、寺歴を見ると現在の大本堂がほぼ完成したのが昭和41年、次いで42年に大密殿、43年に屋上の宝生殿完成とあるから、ちょうどそんな頃の旅行だったわけだ。
 
 バスの中では早速マイクを握って歌っている人もいる。最初の観光地は国道19号木曽寝覚めの床で、この後も観光名所がいくつか出てくるから、無形大師の故郷四国を目指しながら随所観光もする盛り沢山なスケジュールだったようだ。

 神戸高松間四時間のフェリーに揺られ本州から四国に入り、映像は785段の石段の両側に土産物店が並ぶ香川県の金比羅さんと、吉野川の大歩危小歩危渓谷と続く、参加のみなさんはとても元気で笑顔だ。きっと待ちに待った旅行だったのだろう。

 高知県に入り龍河洞の鍾乳洞観光。総延長4キロの洞窟は晴れた日でも湿度が高く、入洞者は濡れても良い専用のはっぴを渡される。はっぴを羽織り洞窟へ向かう面々は今度は揃って緊張気味。次に高知城へ行き、龍馬像のある桂浜、無形大師お気に入りの高知中央卸売り市場で、みなさん干物をたくさん仕入れられた。無形大師はここのちりめんじゃこがお好きだった。

 高知市から国道56号を西へ約70キロで大師の故郷四万十町影野だが、その道中バスがパンクしてしまったようだ。路肩に止めたパンク修理中のバスの周辺で山菜採りに忙しい笑顔のご婦人方は実にほほ笑ましい。ご婦人方は殆どが着物に羽織り姿で、その時代を物語っている。

 途中の土佐久礼は鰹の一本釣りで有名な漁師町で、太平洋を眼下に見下ろしながら走る海岸沿いは大師お気に入りのルートで、マイクを手に説明されている。双名島をバックに大漁旗を翻す漁船が走る景色は今もなお変わらない。久礼八幡神社は大師も幼少時祭りに出かけたという地域の大きな神宮で、この境内で一休み、存命だった大師の姉妹も駆けつけ、肩を抱きながら記念の写真。
 
 ここから影野までは距離は十数キロだが標高差が300メートルもあり、今は高速道のトンネルで通じているが、当時久礼坂と呼ばれたこの山道は崖っぷちを走る狭く曲がりくねった砂利道の続く有名な難所で、命に関わる大事故がしょっちゅう起きていた場所だった。大型バスで来ることを懸念した父は、私を連れ自家用車で途中まで迎えに行った。カーブを何度も切り返しながら、バスはようやく頂上の七子峠に着いた。

 無形大師は影野に帰省されると一週間から長い時で二週間滞在されたが、この時はほんのわずかな滞在だけでまた発たれた。我々はいつもと違う大人数の来訪者に戸惑いながら、大師とのわずかな時間を過ごしたが、大師と私の姿も映像に残っていて驚いた。八ミリカメラなど見たこともなかった時代だったから、私の場合今になってみると動いている小学6年当時の自分とここで会うことが出来る。建て替える前の家や庭の赤い南天の実さえ懐かしい。従兄弟や近所の遊び仲間の子供達も写っている。

 一行は大師生誕跡地とお地蔵様をお詣りされ、四万十川に架かる中村市(現四万十市)の赤い鉄橋を渡り足摺岬へ向かわれる。竜串見残しの奇岩海岸を通り、灯台を散策され、四国八十八カ所第38番札所金剛福寺を参拝され、瀬戸内を廻り帰路につかれたようだ。帰りの国道19号線では途中から雪となりタイヤにチェーンを履かせやっと長野に到着、桜坂を上り無事本山に戻り待ちかねた留守居の門弟方に迎えられ、大師が坂を上り本堂玄関前に立たれ、大師68歳、今から53年前のこの記録八ミリ映像は終わる。





op.19 音楽のこと  r03/01/30 mugen

 一昨年の十二月、本堂玄関にグランドピアノを置いた。本堂の玄関にピアノを置くなどそれまで考えたこともなかったが、テレビで空港ピアノや駅ピアノを見ていて、通行人により自由に奏でられるピアノの音に、見ず知らずのまさに国境も越えた大勢の人たちが共感し、一瞬にして音の空間に同一に染まる光景は、まさに音楽の持つ力だと思っていた。

 私共の世代だと初めて手にした楽器は小学校に入学してからのハーモニカだったと思う。単音ハーモニカと呼ばれる一段構えのそれは吸って吐いて音を出すことで曲を吹く。そして三年生で半音の吹ける二段構えの複音ハーモニカとなり、私の母校では二十数曲の課題曲がやさしい順に並んだテキストが一人ひとりに配られた。一音ずつ音を拾いメロディーを完成させ、自信がついた所で先生の前で吹き、合格点で次の曲へ進んでいくのだった。私はなぜかこういうことがとても得意で、みんなが苦労してる中で、学年の誰よりもまっ先にすべての曲をほぼ一回でクリアーし終了した。課題曲は初めての曲ばかりだったが、最後の二曲が「スケーターズワルツ」と半音を使う「エリーゼのために」だったのを覚えている。

 テキストを終えてからはハーモニカはどうやって音が出るのか知りたくて分解し、リードと呼ばれる薄い弁を何度もいじってるうちに折ってしまった。四年生になるとハーモニカに変わりリコーダーを吹くようになる。「これはハーモニカよりも利口だ(りこうだ)ね」などと冗談を言いながら友達とふざけて屋台のチャルメラを吹きながら通学したりもした。六年生では運動会の鼓笛隊であこがれの大太鼓の担当になった。いくつかの楽器の打ち方を示した譜面があったが、歩きながら叩くのだから歩くリズムで叩けばいいはずだと思い譜面を見ることなく叩いたが、先生に一度も注意されなかったから、さほど間違えてはいなかったのかもしれない。
 
 中学になって初めて洋楽を耳にした。ポップトップスの「マミーブルー」は英語の歌詞の意味はわからないが独特の曲想がとても好きだった。日本のフォークソングも聞くようになり、ギターが欲しくて町のレコード店でギターを買った。あがた森魚の「赤色エレジー」岡林信康の「チューリップのアップリケ」「手紙」などは歌本を見ながらコードを押さえ簡単にコピーできたので弾きながらよく歌っていた。高校に入った頃はフォークソング真っ盛りの時代で、ジーンズに長髪のフォーク歌手たちが自由な歌をたくさん歌ってたことに大いに影響を受け、私もジーンズに肩まで伸ばした長髪で詩を書き曲をつけ、10穴のブルースハープと呼ばれるハーモニカをホルダーで首から下げて、家でも学校でも友人宅でも毎日ギターを弾いて歌っていた。地元のアマチュアバンドがコカコーラ主催のコンテストに入賞し、盛んにコンサートも行っていたが、そのバンドからお呼びがかかり、主催するチャリティーコンサートでの飛び入り演奏をさせていただいたことがあった。「オニヤンマ」というバンド名の彼らは私よりも年上の社会人ばかりのエレキバンドだ。ボブディラン風な単調なコード進行で延々わけあり風な言葉を連ねて歌う吉田拓郎の「イメージの詩」「おろかなるひとり言」「友達」と、自分で作った「あの日のことは」を歌った。

 高校卒業後当山に入山してからは、楽器を弾いたり歌ったりは一切出来ない日が10年以上続いた。朝5時起床から夜寝るまでの年間を通しての修行生活の中で、唯一音楽を聴けるのは食後の養身と夜寝がけのわずかな時間だけで、イヤホンで高校の時から持っていた何本かのカセットテープを繰り返し繰り返し何百回も聴いた。それを聴くことでつらいと思っていたことの全てを乗り超える力が生まれ、あの時の歌たちは恩人だと思っているほどだ。大雄殿の工事が始まった頃に松本市在住の門弟のおじさんが使わなくなったトランペットをくれた。トランペットは音が大きいので普段は寺では吹けないが、大雄殿工事中の数ヶ月は日中ずっと重機の大音響が響いたので、昼休みに大僧堂のベランダから工事中の大雄殿に向かって吹いた。教則本で吹き方を覚え、好きな二二ロッソのコピーの「ある愛の歌」は得意ナンバーだった。工事終了後は寺の上の納骨堂広場や隣の墓地で吹いた。喜太郎や宗次郎のオカリナが流行った時はキーの違う数本のオカリナを求め、オカリナは単音なので音は耳コピーで吹けた。
 
 高校生の時弾いていたギターは自己流の独学だったので、いつかクラシックギターをしっかり習ってみたいと思っていたら、門弟のお姉様がクラシックギター教室を長野市内で開いていることを知り、週一で通わせていただいた。お姉様は三十才代で病気で失明された後、東京の大先生を師事し、初めて手にされたギターにご精進され教師資格を取得された方で、私にもとても丁寧に、そして楽しく教授してくださった。「禁じられた遊び」で著名なナルシソイエペスらと共にギターの神様と言われたアンドレスセゴビアの元に通われた経歴を持つ東京の大先生が編纂されたマドリード王立音楽院準拠のたくさんの曲のカリキュラムを、一曲ずつ丁寧に教えてくださった。千葉県のクラシックギターサークルをまとめる方とも知り合い、以来十数年千葉で開催された新年演奏会にも行かせていただいたり、大勢の方に長野に来ていただきギターコンサートを開いたりもした。
 
 他にも龍笛や篠笛をサイトで吹き方を調べ吹いてみたりと、何かしらの楽器と常に向き合っていたのだが、グランドピアノの鍵盤を弾いた時の音の広がる感覚は今までのどの楽器よりも開放的なことに驚いた。場所が本堂の玄関であることもその大きな要因なのだろうが、ピアノの開放感は坐禅の開放感とよく似てとても心地よい。ピアノはもちろん習ったことがないので、子供の頃から今まで聴いてきた好きな歌の歌詞をサイトで集め音を拾ってドレミで書き込み、「唱歌童謡」から「ポップス」など、いくつかのジャンルにわけた自称レパートリー曲は、この一年で197曲になった。


 

  

op.18 夏安居 げあんご の思い出  r02/10/28 mugen

 中学の時は1年と3年の2度夏安居に入った。初めての1年の時は、父と父の友人方と地元の和尚さんと従兄弟の出水君と一緒に入行した。私は修行のすべてが初めてで、九字も水行も滝の行も、お経も坐禅も、すべて入行してから教わったが、母が病気で郷里で入院し、夏安居中に手術を受けることになっていたので、お経の時はひたすら母の病気の治癒を仏様にお願いし続けた。合掌の腕の痛さも、正座の足の痛さも全てを仏様におまかせしながら懸命に祈った。満願直後ご方丈の大師に呼ばれ「おまえの祈りはものすごく強烈に仏様に通じたぞ」と言葉をいただき驚いたことだった。
 
 夏安居ではその頃からすでに入行者は年齢順に班に分けられていた。我々1班は中学生の班で、みんなとても仲良しになった。班長は第7期の大伝法を終えられたばかりの田中徹純大居士(当時)さんだった。白衣を普段着に着替え、外で身体を動かせる作務供養では、今でも使われているたくさんの長机作りを行った。本堂の玄関前が作業場で、我々1班の作業は仕上げの紙やすりかけだが、やってもやってもまた新しい机が出来てくるので、そのうち閉口したのが本音だ。そんな我々を徹純さんは頑張るよう懸命に鼓舞された。あの長机にはそんな思い出がある。
 
 普段の生活と違い3時起床から夜9時消灯まで、びっしりと行息の組まれた10日間(当時)の夏安居では、子供の自分にとっては食事と茶事供養(さじくよう)がやはり楽しみだった。食事では未だに忘れられない可笑しな体験がある。

 当時の郷里ではまだ納豆を食べる習慣がなく、「納豆」は聞いたことはあるが見たことがなかった。2日目か3日目の朝食で3色皿の一部に納豆があった時、出水君と私の二人はそれが納豆だとは気づかなかった。食事中は話が出来ないので、長机の食卓に並んで座った二人は、アイコンタクトで「これは何?」と話しをした。大豆の煮豆とも似ているが、それにしてはなんだか臭う。藁の敷物に包まれ糸を引く姿も異様だが、未明から起きて修行し、お腹がとても空いているからよもやそれを食べない選択肢はなかったが、まずは初めて見たそれの食べ方がわからず、他の人のやり方を真似した。なんと豆に醤油をかけ、さらに箸で盛んに混ぜ合わせている。遅れるなとばかり醤油をかけ混ぜ合わせてみたが、強烈な臭いはさらに勢いを増し襲ってきた。「なんだこれは!」閉口する心の動揺のまま、またさらにご飯にそれをかけ食べてるのでそうしてみたが、臭いがたまらず息を止めそのまま飲み込むしかなかった。「これがもしかしたら納豆か?」やっと気づいた二人は全てをご飯と一緒に飲み込み、これも修行だと涙の出る思いだった。一度手を付けた食材は綺麗に全てをいただくのだ。食堂から外に出て「あれがきっと噂に聞いた納豆だよ」「次は絶対手を付けちゃいけないね」と話したが、リベンジ精神で二度目も挑戦し、結局また全てを飲み込んだ、そんな笑い話の思い出だ。

 10日間の夏安居が終わり、帰郷するまでの数日間、我々は解放された鳥のように遊び回った。朝のお勤めと朝食を済ませるとお寺の裏山にあったリフトやケーブルカーも使ってそこらじゅうを探索して回った。街にも下り電車にも乗り近隣の町も探索した。一旦寺に戻り昼食を済ませると夕食までの間、またそこらじゅうを探索した。遊んでばかりであまりにも勉強しないので大師に叱られ、そんな時は勉強もそこそこやった。そして下山の時には伯母の無瞋尼様が小さな菓子を大きな袋に笑顔と一緒にいっぱい詰めて持たせてくれた。
 
 二度目の中学3年の夏安居は、一度目とは違う別の従兄弟の啓君と二人だけで入行した。当時はまだ本州と四国を繋ぐ橋はなかったので、高松と岡山県の宇野間は1時間の宇高連絡船で渡った。この連絡船のデッキで食べる立ち食いの讃岐うどんが評判の絶品で、舟に乗った人々は一気にデッキまで登りうどんの長い列に並ぶ、もちろん我々も一気にデッキまで登り行列に加わりそして食べた。この啓君との夏安居では、入行に際してまずは道中の食べることの綿密な予定を組んだが、何のことはない昼食のこのうどんを食べ落とさないことと、どこで夕食の駅弁を買うかだ。うどんを無事に食べ終えたから、長野駅に着く前にどこで夕食の駅弁を買うかが課題として残った。結局名古屋駅から長野までの急行で買うことにしたが、お腹はすいてきたがもっと先に行けばさらに美味い駅弁がある気がして我慢をしていた。列車が中津川に差し掛かった時だ、「当列車の車内販売はこれで終了させていただきます」の車内放送、夕食の駅弁を買いそびれたことにここで気ずき、空腹はさらに強烈になってきたが「長野駅の近くで何か食べよう」と励まし合いやっと夕闇迫る長野駅に着いた。ところがまだ早い時間だと思うのに長野駅近くの店はもうどこも開いてない。重いボストンバッグを片手に提げ「善光寺まで行けば観光地だからまだきっと開いてる店があるよ」と励まし合いながら中央通りを上ったがどこも開いていない。いよいよ半べそ状態の頃、一件のそば屋の灯りを見つけ、「地獄に仏とはこのことだ」とか思いながら、大門の角のそば屋「大丸」で蕎麦は食べたことがなかったのでメニューにあった「卵どんぶり」を注文し、めんつゆで味付けされた甘口のそれをとても美味しくいただいた。寺に着き啓君は初めての、私は二度目の夏安居に入行した。その年の夏安居のテーマは「報恩謝徳」で、一班の班長は松橋仁一(正塔権正和尚)さんだった。教学では班ごとにテーマについて話し合う時間があり、松橋班長は我々を外に連れ出し、畑のリンゴの木陰で「感謝」について話をしてくれ、そして我々も思っていることを発表した。満願後大師に御方丈に呼ばれ「今年は感謝という大切なことを学んだね」と、諭すように夏安居に来た意義を教えられた。

 お経を詠むことと坐禅がとても好きになった。帰宅後は実家の仏間で毎日お経と坐禅をした。坐禅は背筋を伸ばして座ると、さっと気持ちの良い呼吸に入れた。読経をしていると途中から必ず祖母が加わり、修証義全文を暗記しているのには驚いた。私は夏安居の教学で学んだ般若心経と、一番最初に覚えた舎利礼文と消災呪が特に好きだった。
 
 そんなことが今から50年も前の中学生時代の夏安居の大切な思い出である。



op.17 回想とコロナ所感  r02/06/28 mugen

 5月5日の真夜中に無形大師の夢で目を覚ました。今から40年前の昭和55年5月5日朝5時5分のある出来事を思い出し、そのことで一日を過ごしたためか、寝ても夢へとつながったのかもしれない。夢の中で大師はとても喜ばれ手を伸ばし私に握手を求められた。「コロナで握手は今タブーだけど」と心の中でそう思いながら握手に応えた。大きくて柔らかく、とても暖かい久しぶりの大師の手だった。

 世界的な新型コロナウイルス蔓延騒動で、買い物に行っても全員マスク、ビニールカーテンで仕切られたレジ、感染症拡大防止対策のことはわかっているが実に異様な光景だ。こんな時だから今までにも増して大師のことや、子供の頃の自然に囲まれたのんびりとした生活を思い出すのかもしれない。稚拙な幼少体験だが、これらが命の大切さを考える原体験だったと思っている。

 高知県の私の生まれた集落には「なかみぞ」と呼ばれた田んぼ脇の用水路があった。幅は1メートル程で深さは20センチ足らずの小川である。稲作の準備にかかる春先には地域の大勢で田役(たやく)と呼ばれた水路の補修がされ、大人たちは草を刈り水を抜き、痛んだ箇所を赤土で補修した。水の抜かれたなかみぞではドジョウやフナなどの小魚が手づかみできた。子ども仲間には暗黙の上下関係があり、年上の力の強いガキ大将には決してさからうことはなかったが、ガキ大将には必ず分け前をくれるという優しさもあった。田役で数日水の止まったなかみぞではシジミも採れた。渇いた土を小枝で少し掘るだけでたくさん採れた。そのシジミは半日水に浸け砂抜きをして翌朝の味噌汁になる。
 
 田役が終わり水の張られたなかみぞは冬を迎えるまでは、また我々の遊び場となる。洗濯機のある家はまだ珍しかったので、母たちは洗濯もなかみぞで行った。粗末な一枚の薄い板が洗濯場の膝当てになった。子どもたちはすすぎの洗濯物を上流から流し、自分が一寸法師のお椀に乗って川を流れているような錯覚を覚えながら手伝った。クローバーの四つ葉や五つ葉の群生する場所を見つけ、ノートや新聞紙に挟んでたくさんの押し花もこしらえた。
 
 夏休み近くになると、なかみぞでうなぎ釣りもした。籤(ひご)釣りといって、細長く削った竹籤の先のうなぎ針にミミズの餌をつけて、うなぎが居そうなガマと呼ばれる石垣の隙間をねらって釣る仕掛けもあったが、それとは違う浸け釣りという釣り方をした。竹を細く割った短い杭に数メートルのたこ糸とうなぎ針と石のおもりの原始的な仕掛けで、餌のドジョウは昼間のうちになかみぞでザルで掬って準備する。薄暗くなりかけた頃にうなぎの通りそうな場所に仕掛けを流し、翌朝陽の上がる前に仕掛けを上げに行く。20ぐらい仕掛けるが、毎朝数匹のうなぎが捕れた。今で言う天然物だ。家に持ち帰り細い包丁で自分でさばき、庭で七輪の炭火で父母が焼き上げた。醤油とみりんに砂糖と酒を混ぜた自家製のタレは、上等とはいえないが立派な蒲焼きとなった。 
 
 田植え後の青田で稲が風に揺れる頃を過ぎると、蛍がぼちぼち飛び始める。なかみぞには蛍の幼虫の餌になるカワニナが無数にいたから、蛍も無数に飛んだ。2匹で1円の螢買いのおじさんが一夏に2度訪れたから、我々は数100匹もの螢をその日に向けて捕獲した。それでも闇夜を舞う螢はまだまだ無数に居り、時々竹ぼうきに螢を止まらせては満天の星空に向け、星と螢の光の舞いを楽しんだ。そんなのんびりした田舎暮らしだったが、赤痢が地域にも流行(はや)ってしまったことがあり、急きょ休みとなった小学校が隔離病棟となった。目に見えない細菌への恐怖と共に、隔離患者となってしまった同級生の回復をみんなで願ったものだ。
 
 自然の中でのびのび育ち、自然の中のたくさんの命をもらって生きてゆくという、人間は勿論、人以外の命についても学んでいたように思う。そして年に1、2度帰省された大師からは、花やとんぼや鳥や蝶を通しても、厳しく命の尊さを教え込まれた。

 世界的なコロナ蔓延の惨状の中、まず思ったのは命だった。世界中の人々が等しく命と向き合っている。そして世界中のリーダー達の多くが、経済に関わる利権にばかり走り過ぎ、命との向き合いが足りてなかったツケを今払わされているのがこの惨状だと思った。
 
 未曾有の大試練の中、多くの犠牲と困難を払いながら世界中の人々が等しく命と向き合い、経済の混乱とも向き合っている。あの頃大師から言われた「おまえは社会経済より精神経済を勉強しなさい」の言葉を思い出していた。


 


op.16 ふたたび三十三間堂  r02/01/28 mugen

 管長就任前の今から九年近く前のことだが、父無量の葬儀を終えた後、かつて父が学生時代を過ごした奈良界隈の縁地を訪ねたことがあった。父は郷里の高等小学校を卒業後、当時任務で釜山に滞在していた父親無形大師に呼ばれ一人で当地に趣いたが、「俺はこれからえらいお坊さん(印光法師)に会うために中国に行くようになったから、おまえはやはり内地に戻り大阪の北野中学という学校に行きなさい」と言われ、またもや初の地である大阪を訪ね、北野中学の校長先生に用意していただいてあった下宿屋に趣いたところ、そこの御縁者から「北野中学よりもっと良い中学が奈良の天理にある」と紹介され、旧制の天理中学 (後の天理高校)に通うようになったとのことであった。スポーツ好きだった父は天理中学ではラグビー部でキャプテンとして全国制覇も成し遂げたという偉業話もよく聞かされたので、この時は当時の資料が天理大学図書館に残っているのではないか、また修学旅行の集合写真に残っている宇治の平等院鳳凰堂や、よく試合をしたという東大阪市の花園ラグビー場も訪ねてみた。
 
 そんな旅の折に郷里に居る姉から連絡が入り、「その辺りにいるんだったら京都の三十三間堂も訪ねてみたら如何、無形大師が和歌山の人達に遺言のように残してある話に三十三間堂があるよ」とのことであった。かつて無形大師が三十三間堂を訪ねられた際に、その千体観音の内の御一体のみに御入魂をされた、わしの弟子であるならばそれがどの御一体であるかわからなければいけない、というのがその話しの内容であったが、時間的に寄れることもあり、是非その御一体を探してみようと思った。

 京都東山に位置する三十三間堂は正式な名称を蓮華王院三十三間堂と言い、今から八百六十年前の平安時代に、後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂であり、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来し、国内外を問わず多くの参詣者で賑う仏教都市京都の一大観光地のひとつである。また本堂西側の百二十メートルの長い軒下を使った通し矢でも有名だ。私は初めての参拝だったが、入り口に立った時に拝した千体観音の偉容は圧巻で息を呑んだ。

 足早に行き交う人、しっかり拝みながら移動する人、様々な人達の中で「さあどうすればその御一体を見つけることが出来るのだろう」と一瞬戸惑ったが、「そうだ、かつて無形大師とご一緒にどこかを歩いた時の呼吸で歩もう」と思い、まさに無形大師とご一緒に歩いていると思念しながら御一体ずつ拝し歩を進めた。
 
 千体観音と言えどもその御相は御一体ずつ微妙に違う。かつて御本尊として観音を迎え御入魂する際の心構えを教わったがそのことも思い出し歩いているとその御一体と巡り会えた。九百九十九の他の観音像とは違い人間と同じ赤い血が流れ呼吸をしておられる、まさに生きておられる御一体がそこにおられた。そして阿弥陀来迎図に見るように多くの眷属を従えられ、その御一体を先頭に金色の柔らかな空気に包まれていた。
 
 ありがたくて足に根が生えてしまった如くに立ち尽くし動くことができなくなった。しばらく向き合い真言を念じたが、場所を変えて見たらどうなんだろうと少し離れて拝したがやはり間違いない、さらに遠くから、次は逆回りでと数回試してみたがその御一体に間違いないことを確信するばかりだった。

 そしてつい最近NHKの「歴史秘話ヒストリア、三十三間堂、国宝大移動、よみがえる平安の祈り」という4kに編集された番組を見た。国宝の大移動ということはあの御一体も移動し場所が変わってしまうのだろうかと思いながら見ているとそうではなかった。
 
 千体観音も長年の経年劣化があり、必要な修復もされているのだそうだ。その修復作業の中で千体観音の御体内に納められていた創建当初の全体の配置図が示された摺仏と呼ばれる印刷物が見つかり、それによって大弁功徳天と婆藪仙の配置や風神雷神像の配置などが、長年の修復の過程で創建当初と違ってしまっていることが判明し、このたびのそれらの仏像の大移動となったということであった。
 
 大移動の結果、風神は順路入り口に、雷神は出口へと場所の左右が入れ替わり、観音二十八部衆像も十三体が改名され配置順も変わる「平成の大再編」となった、ということである。
 
 風神雷神にのみ関したことだが、私が参拝した時は入り口に雷神像、出口の最後尾に風神像が居られたわけだが、実は出口でこの風神像を拝した時、お向きの方角が違うのではないかの妙な違和感を覚えていたのだった。

 無形大師が御入魂された御一体との巡り会いと共に、今回のことは私の中でまた新たな喜びにつながった。

 



op.15 伊東別院随想  r01/10/29 mugen

 昭和52年頃に伊東別院の引き上げということがあった。群発地震の頻繁な発生が引き上げの理由と聞いたが、作業としては別院の多くの荷物を、当時はまだ小さなプレハブ建てだった安曇野の北アルプス別院に運び移すということがあった。私は入山したばかりの20歳で、運転免許も取得したばかりだったが、先輩の小林秀英さんと共にまずは無形大師の管長車ベンツを東京から伊東別院に陸送することをさせていただいた。と言っても免許取り立てで不安いっぱいの初高速運転だったが、秀英さんがやさしく丁寧に車線変更のこつなどを教えてくれ、あれから40年以上経った今でもそのことは高速運転で励行している。
 
 東名高速厚木インター付近で走行中のベンツの左後輪がパンクした。秀英さんが運転していたが左後方に異音は聞いたがパンクとは気づかず、横を追い越したトラックの運転手が大きな声で指さしながらそれを教えてくれた。秀英さんは静かにベンツを左路肩に移動させ、止めてみるとなるほど左後輪がぺしゃんこにパンクしている、今は絶対にやってはいけないことの一つだが、そのまま路肩でジャッキアップし、トランクから荷物を道に降ろし、スペアタイヤを取り出して30分ほどかけてタイヤ交換した。秀英さんの落ち着いた行動に学ばされ「少しもハンドルを取られることがなかった、さすがベンツだ」と言ってられたのも印象深かった。

 その日の昼前に別院に無事到着し、大師や無瞋尼様にご挨拶したが、私は初めての地でもあり、何をどうすれば良いのかの要領も全く心得ていなかったので、秀英さんに付いて行くのが精一杯だった。昼前に着いたのですぐに昼食となったが、我々以外の方はもう済まされていたのか、あるいはお昼は召し上がらなかったのかはわからないが、秀英さんと二人きりの昼食となった。何をいただけるのだろうと思っていたら秀英さんが持ってこられたのは三色皿に乗った2枚の食パンと牛乳で、その日のお昼はバターもジャムも付かない一人1枚の真っ白い食パンと牛乳だけだったわけだが、三色皿に乗った2枚の食パンに向きあって、秀英さんと食前偈を唱えいただいた不思議な感覚の食味は未だに覚えている。

 二度目に別院に行ったのはそれから一週間ほど後で、今度は無老和尚様(当時)と二人で、お寺の水色の日産サニーバンで伊東と北アルプスの二つの別院を何度も何度も荷物を運び通った。中央高速を一部使うのだが当時は山梨の須玉インターまで下道を走り高速に乗った。どこをどう走ったのかはよくは覚えていないが、山道の下道が殆どで、とても疲れる行路だった。無老和尚様は大の浪曲好きで、道中ずっとカセットテープの大音量の浪曲が車内に流れた。私も好きになれればよかったのだがそうではなく、しかし他の音楽を聴きたいとも言えず、長いその行程の何度もの往復を浪曲三昧に過ごした。

 無老和尚様はお世辞にも運転は上手とは思えなかったので、かなりの部分を私が運転したが、そのうち気持ち良くなり無老和尚様は助手席でリクライニングされ寝てしまわれるが私は寝るわけにはいかず、何度も何度も襲い来る睡魔と戦いながら運転を続けた。時折「そうだ脳の半分ずつ寝てみよう」と思い、顔の右半分と左半分を一瞬ではあるが交互に寝かせ休ませるという裏荒技を試してみたりもしていた。何日かけ何往復したかは覚えていないが、伊東別院のマンション十階の部屋からエレベーターを使い荷物を降ろし車に積み込み運ぶというこの作業を行わせていただいた。

 その後すぐに伊東別院は売却もされたので、それから一度も行くことはなかったが、管長就任後間もない平成25年9月、本当に久しぶりに別院のあったマンションを訪ねた。叶澤正覚和尚主催の鎌倉参禅会の翌日、叶澤氏と私の姉と三人で行ってきた。私個人は引っ越しの記憶しかなかったが、旧別院の入り口のドアや、荷物を運んだ長い廊下やエレベーターや駐車場にもあの時のことが思い出され、切なくはあるがまた嬉しさも感じられる無形大師への深い思いに改めて包まれた。その後、また久しく会っていなかった別院近くの海岸端に長く住む母方の叔母の家も初めて訪問してきた。

 今回活禅の友の取材で、当時無形大師の大浄解脱満と呼ばれた当別院での大秘法行に侍者として随行された徹純権大和尚をはじめ編集委員の方々が別院跡地マンションを訪問された。それぞれがそれぞれ大きな思いを感じられたことだろう。まさにお地場踏みの行だ。訪訪問いただき本当によかったと思う。
 

 


op.14 令和雑感  r1/07/03 mugen

 新元号の令和が発表された時、みなさんはどんな印象を持たれたのだろう。私は「れいわ」と聞いた瞬間麗しい和合の「麗和」を思った。同時に麗和だとしたら綺麗だけれど難しい文字だと思った時、この「令和」が示された。「令」の字は意外な感じも受けたが品の良さも直に感じられ、そしてさらにもう一つの「0(れい)は」を思い出していた。 

 小学校に入学したばかりの時のことだ。教室の黒板の横に貼られた「あいうえお」の五十音の大きな貼り紙と、1から100まで書かれた数字の貼り紙を見て、これからたくさんのことを学べることの大きな喜びと興奮と、そして自分にそれが出来るのだろうかと少し不安も抱いていた。

 その頃の郷里高知県四万十町は国道もまだ未舗装で、学校までの道筋の両側は春には満開の桜で彩られたが、街灯が殆どなかったので夜ともなると寂しいを超して恐いくらいだった。
 
 無形大師の父輿三次(よそじ)は昭和38年4月に87歳で亡くなり、自宅で執り行われた葬儀で導師を勤められた大師が私の記憶に残る最初の祖父無形大師であるが、入学したのはその頃のことである。

 国語は読むのも書くのも好きで、教科書や大師が買ってくれた児童書などは何回も何回も繰り返し読み殆どを暗記したくらいだったが、困ったのが算数だった。1から9までは数えられたが、何もないことを示す0(れい・ゼロ)が1の横に並んだ数字の10がどうして9の上に存在するのかが解らなかった。一番小さな数字の1と、何もないことを示す数字の0は並んで9の上に存在してはいけないと思った。だがしかし9の上に10があることは定義づけられたことであり、当たり前のことだから、それはそのように理解し納得しなければいけないのだが、それが定義としてあるのならば、数を数える時には1からではなく0から数えるべきではないかと悩んだ。0から数え始めれば9の上に10があっても何となく納得できる。そうやって数を数える時には1からではなく0から数えるようにして数字の疑問に向かい合った。0と声に出すと間抜けに思ったから0は心の中で数えて1から口に出して数えることをしばらく試した。こんなふうだったからきっと算数の成績は良くなかったのだろう。

 2年生になると今度は足し算と引き算に加えかけ算が出てきたが、自分はまだまだ0の存在に疑問を持ったままだったから本当に困って、0とは何だろうと一日中考えるようになっていた。
 
 何がきっかけになったのかは覚えていないが、ある時ふと「0は何もない世界を示す数字ではなく、無限を形成することの出来る唯一の数字で、数字の中で一番力を持つ、一番偉い数字なんだ」という自分なりのひらめきがあった。0が1の横に一つ付けば10になるし、二つ付けば100になる。三つ付けば1000になるし四つ付けば10000になる。そうやって0が付くことによって数は無限に増え、数の無限の世界が広がって行くことに気がついた。目から鱗が音を立てて、どんと地べたに落ちたような、心が踊り回るようなとてもすがすがしい喜びに満たされた。
 
 今このことを思い返すと、無限絶対の仏の安心の境地を説かれた無形大師に魅せられたのは、この時の体験と似ている気がする。無であり空であると示されるそれは、あの時の数字の0から受けた喜びと通じる気がする。
 
 結末が「0はえらい」と自分なりに納得したあの時の0であったが、本題に戻り新元号の「れいわ」を聞いた時思った「0は」は、この時の「0は偉い」の「0は」である。
 
 令和改元後に「令和」の提案者であるという方のメッセージをテレビで聞いた。
 「令和の令には麗しいの意味もあり、きっと麗しい和合の時代になるでしょう」ということであった。実に美しい解説だと思い、なおさら令和がとても好きになった。



op.13 武田無著尼について  H30/11/19 mugen

 無形大師が少年時代に、高知県香美郡野市町(現在の香南市野市町)の吉祥寺ご住持武田無著(むちゃく)尼より禅の深い薫陶を受け、それは生涯を通しての信仰の礎になったと良く伺ったが、尼公の御経歴や御尊影については存知あげる由のなかった所、先年帰省の折に地元の図書館で、尼公の教化活動、ご主人、ご令弟、ご長男についてまとめたものを見つけ整理したので、抜粋し紹介させていただきます。

 無著尼は野市町切石山中腹にかつてあった臨済宗宝鏡山吉祥寺開山の尼僧である。俗称を花枝といい、高知築屋敷武田左衛士の長女として、安政7年(1860)11月14日に生まれ、香宗我部家(土佐の豪族で室町時代初期より勢力を伸ばし、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子に迎え、以降は長宗我部氏の一族となる)の裔(えい)武田秀山(ひでのぶ)(陸軍少将)に嫁ぐが、秀山が明治35年12月24日病没後に発心得度し、鎌倉円覚寺釈宗演禅師について学び、のち京都東福寺管長広田天真にも教えを受けた。武田家の祖である香宗我部氏の居城跡が野市町土居八幡にあり、菩提寺宝鏡寺は城跡南方小字寺中にあったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった。
 
 無著尼は菩提寺宝鏡寺の再興と民衆済度を志し、切石山に大正5年(1916)秋、京都より吉祥寺を勧請し寺を建立、菩提寺の「宝鏡」を山号として宝鏡山吉祥寺を開基したが、無著尼すでに57歳に達していた。尼公の徳を慕う善男善女の喜捨になる指輪かんざし類をもって鋳造された梵鐘もでき、大正7年9月1日「自」字染め抜き法被を着た自浄会員百数十人によって、後免(ごめん)駅より大八車で運搬され鐘楼堂に懸納された。
 
 無著尼の教化活動について具体的な詳細を伝える史料は見ないが、地元の野市読本に「衆生を救い社会を教化し、平常心の上に道を立て、地上の楽園に法(のり)を敷かんとする念願」とともに、「その心の底に流れる強い愛国心の至誠」のもとに、「実に尼公は法を傘に、禅を手段に、皇道精神の鼓吹(こすい)を以て共の畢生(ひっせい)の目的とした」と述べており、また「妄念にとらわれた醜さ」を説き「我執を逃れる道」を説き「人生の苦を語り、女の弱さを語り、然もそれに生きる道」を説き、なお自らの日常の生活はいよいよ簡素を加え、余財は惜しみなく社会に捧げて人の為に尽くすを楽しみとした済度救世の概要と自戒の厳格さを記している。いわゆる禅的説法により婦道を説き、郷党(きょうとう)社会の改善を図ったもので、「高く法の光を掲げられて以来、尼公の徳を慕い、訓(おしえ)を乞い、救いを求むる者日増しにその数を加えた」とあり、伝承によると、かなり遠方の地よりも救済を求めて参集する者が多かったようで「悩みの底から逃れた者はその数を知らない」と述べており、尼公はそうした救済者を寺に泊めて説教をしていたようで、悩みを持つ一婦人に対する夜を徹しての説教救済の状況も記述している。
 
 また無著尼による香南地区の教化が進展して、所々に修養を目的とした婦人集団の結成があったらしく、例えば野市町山下部落の別役糸子会長の自浄会は会員多数で、毎月一回例会を開き、無著尼を迎えて婦徳研修が行われており、徳王子(現香我美町)、山下、新道、石屋、東町(以上現野市町)には報徳会なる名称の団体結成があったとも伝えられるが、これらはその状況史料の断片的なもので、さらに各地に多くの婦人修養の集団結成があって、尼公を招いて修養会が催されていたと考えられるが、史料を欠くのでその実態はわからない。しかしこうした活動もわずか十数年の短期間で、無著尼は昭和3年暮れに東京阿部病院で69年の生涯を閉じたが、野市町及び香宗村ではその遺徳を讃えて町村葬を野市小学校で執行し、また檀信徒総代多数協賛の上、寺に開山堂を建立して無著尼遺骨を収納した。遺書に「無著遺詠」がある。
 
 吉祥寺の庫裡は名倉愛之助が、本堂開山堂は川村一久、鐘つき堂は佐野常吉、別役重光、公文慶吉がそれぞれ世話人で建立した。佐野常吉は吉祥寺の世話をよくし、無著尼は吉田東洋の書を常吉に贈ったという。
 
 無形大師はこの佐野常吉氏に連れられ、当時のこととて実家より80キロを優に超える距離を、親元離れ何度も参籠されている。カイコの餌である桑の木の病に強い品種改良で中国インドにまで名を馳せたという佐野常吉氏については、あらためて縁故を頼り御人物像を知りたいと願っている。
 
 吉祥寺のあった場所は時代の変遷と共にその姿を変え、十数年前に無著尼末裔の武田家より市に寄贈されて後は、車の往来を遠くに聞く山中のひっそりとした公園名でその佇まいを保っている。武田家の栄華を彷彿とさせる苔むした立派な墓地群は往事のままで、割と近年建立されたと思われる無著尼の白御影の真新しい小さな無縫塔が墓地群よりは一段高い一角に設えられ、醸し出される清浄で近寄り難いとも言える不思議な空気感から、尼公の御霊徳の強さをいまだ感じることができる。本堂や鐘楼堂などの伽藍は既に全てが取り壊され更地のままだが、そこに立つと無形少年が一心に無著尼に学んだ往事のままに、まるで無形少年の声が聞こえてきそうな錯覚に陥る。機会があれば無形大師の御法縁の地として、当山門弟各位にも是非一度足を踏み入れていただきたいと思う。



op.12 車  H30/01/27 mugen

 今や生活に欠かせない車。単に移動手段の乗り物という存在を超えて、表情があり命さえも感じさせる一生命体と思うことがある。私も幼年時よりそんな車にまつわる体験がいくつかある。

 わが国のマイカーブームは、昭和39年の東京オリンピックを機に起きたそうだ。国の保有台数を年代順に見ると、今から111年前の明治40年、二輪車を含む自動車全国保有台数は16台で、大正期に入ると1000台、大正10年には一気に1万2000台と増え、昭和29年にはついに100万台を突破し、同39年600万台、50年代4千万台、平成10年7200万台、現在は8200万台とその数は増加の一途をたどる。同時に排気ガス公害、温暖化への影響が取り沙汰され、最近ではハイブリッド車や電気自動車が一般的になり、さらに自動運転車の開発も活発になった。車の進化は計り知れない。今後はまた新たな車社会の展開があるだろう。

 幼少のころ、祖父無形大師は門弟を連れ、年に一度か二度郷里の高知に帰省された。その情報を聞くと、その時が待ち遠しく、二週間も前から毎日幾度も道に出ては祖父の車が見えた時のイメージを抱きながら時を過ごした。当時は黒の初代トヨペットクラウンが祖父の車で、重厚なボディーの印象はまさに祖父に通じ、両サイドドア上部に記印された「無」の文字は、祖父の大きな存在と共に私の心にも強く刻印された。

 祖父は55歳で運転免許をとったそうで、この時のクラウンを始め、その後数台の管長車は全て門弟からの供養による。自分でも運転されたが、たいていは在道の修行生が運転手を務めた。私も一時期運転させていただいたが、前述の幼児期体験があったから、祖父の車を自分が運転することの不思議な感覚は、いつまでも私についてまわった。

 日常のお出かけ以外に長距離では新潟、岩手、茨城、東京、大阪、大分、高知、和歌山などを運転させていただいた。その中でも昭和50年代に行修された大行は心に残る。光から身を守るため全身を白布で覆い、数名の和尚が担ぎ行場を移動された。横たわったままの移動では、車の振動がお体に響かないように油断と呼吸の乱れを一瞬たりとも許されぬ運転は忘れられない。

 その頃東京在住の叔母が使い古しの車を私にくれた。購入時には無形大師から「右側に気をつけろ」と言われ、その後やはり右側からの大事故に遭いながらも、車も人も大惨事を免れた、いわくつきの車だったが、私にとっては嬉しい初のマイカーだった。
スポーツタイプの赤いボディーだったが、パワステがなく車庫入れなどでは肩が凝るほどハンドルが重かった。その頃長野・富山連続殺人事件というサスペンスドラマまがいの事件があり、逃亡犯の車が赤のスポーツ車で、私はこの時まだ東京ナンバーのままこの赤い車に乗っていたので意識過敏になる妙な気分だった。

 元来何でも大切に長く使う性分があり、その後購入した新車は20年近くも乗り続けた。距離数も伸びまた次の車を探していた時に、現在乗っているヨーロッパ車のカブリオと呼ばれるオープンカーに出会った。前オーナーの女性が丁寧に乗った10年落ちのモスグリーンの車だが、乗ってみて気づいたのはオープンカーの開放感は、坐禅の開放感に繋がるということだ。この車が納車になった時、20年来乗った前車が手放されることを拒むかのように突然エンジンがかからなくなり、廃車の手続きに遅れが生じた。この時もまた車に「命」を感じたものだ。            



op.11 同窓会 (元気でおりよ)  H29/10/25 mugen

 中学の同窓会が郷里の高知県四万十町で開かれ、電車で行ってきた。
 
 高知へは車で帰省することが多いが、今回のように半日近くかけ電車でのんびり帰るのも好きだ。今は瀬戸大橋などの本四架橋があり車での帰路も随分楽になった。車だと長野から一度も高速を下りることなく、途中何度か休憩を入れても十数時間で帰ることができるが、一昔前のことを思い返すと、さすがに隔世の感がある。
 
 私はまだ入山したてで20歳になったばかりの昭和52年、当時の作務はいつもそんなふうであったが、その時も無老前管長を作務隊長とした我々一行は、お寺の日産サニーバン2台にスコップや手箕(てみ)や、大きな木槌の掛矢などの作務用具を満載し、窪川別院白銀様御出顕地整備作務へと向かっていた。

 中央高速道はまだ長野県の南信にまでしか延びてなく、長野から松本経由で犀川沿いの国道19号を走り、伊那北インターでやっと高速に乗った。名神を経由し、神戸から高松までは4時間のフェリーによる海路、高松に着くと四国山脈の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)などがある吉野川沿いの九十九(つづら)折れの国道を6時間以上もかけやっと別院に到着したものだ。長野からだと優に20時間はかかっていたのだが、到着の時間によってはそのまま作務に入ったから、ほんとにみんな元気だった。
 
 そんな一昔前のことを思い出しながら、この日は電車で帰省した。JR信越本線、中央本線を木曽川沿いに下り、名古屋で東海道新幹線に乗り換え岡山駅まで。名古屋駅で時間があればホームで、きしめん立ち食いに寄るのも楽しい。岡山で土讃線特急「南風号」に乗り換える。アンパンマンの作者故やなせたかし氏が高知県出身の所以で、タイミングによればアンパンマン号の可愛い車両に乗り当たってしまうこともある。

 このあたりからホームや車両の中にも土佐弁が聞こえ出し、帰省の感がより強くなる。両側にゆったりした瀬戸内海を眺めながら、上を車が走り、下を電車が通る二段構えの瀬戸大橋を通過すると右手間近に低い丸い形が独特な讃岐富士が見えてくる。このあたりは讃岐うどんの老舗が多い所だ。金比羅さんで有名な琴平、弘法大師空海生誕地の善通寺、多度津では右手高台に日本少林寺拳法発祥の地、金剛山総本山少林寺の中国風の寺を眺めながら、かつて甲子園で有名になった蔦監督率いる池田高校のある阿波池田を過ぎ、四国山脈真っ只中の吉野川渓流沿いの沢山のトンネルを抜け、やがて高知県に入る。

 香長平野が開ける後免(ごめん)駅を過ぎる頃に、無形大師幼少時に武田無著尼の元で修行された臨済宗宝鏡山吉祥寺のあった三宝山を遠望しながら、「あの山で山谷禅をよくした」と言われた無形大師の言葉を思い出し、南風号は高知駅に到着。今回はここで急行「あしずり」に乗り換え、残すは約一時間。長いトンネルを抜け右手に広がる景色が高速道路完成によりやや変わってしまった郷里に到着すると、同窓会の女性幹事が迎えに来ていた。土佐弁のままのメールを時折り寄こす幼なじみだ。久しぶりに会うのに懐かしむ気配など全く無く、ここで私は一気に「こうちゃん」に戻る。 

 若くして先に逝ってしまった何人かの彼ら彼女らに黙祷を捧げて同窓会は始まった。還暦プラスワンの61歳の同窓会なので、中学を卒業して45年も経っており、みんなその間いろんなことがあったのだろうが、今こうして中学の時そのままの雰囲気でみんなが集まっている不思議な感覚と、のど越しの良いビールの心地よさに強烈な土佐弁の熱弁達も手伝って、ふっと力の抜ける至福の酔いに数時間を過ごした。

 スマホで録音したみんなの声を長野に戻ってからCDに焼き送ってあげた。懐かしさや優しさをたくさん感じることの出来た楽しい同窓会だった。次の開催は65歳だそうで、これを土佐弁で言うと「次は65歳やと、みんなあそれまで元気でおりよ」となる。





op.10 わがまま歩きイタリア旅行  H29/07/27 mugen

  1998年12月の旅行記です。当時ホームページに連載したものの抜粋ですが、なにしろ18年前のこと、現在のユーロに変わる前。通貨単位なども当時のままのリラで記してあります。少々長いのですがご了承ください。

 ミラノ1泊、フィレンツェ2泊、ローマ2泊のイタリア旅行に行ってきた。2千年問題がらみで9万8千円の格安ツアー。イタリアの前知識は殆どなく、どんな出会いと感動があるのか楽しみでした。ローマでは平野宜昭氏(現正格大居士)主催の真歩館イタリア剣友会との坐禅会、一緒に出かけたヴァチカン市国サンピエトロ大聖堂ではローマ法王ヨハネ・パウロ2世のミサにも出会えました。

★出かける前のこと
 「これ行ってみない」家人のその言葉が今回のイタリア旅行の始まり。ミラノにも行くけれどグラッツェーラ(真歩館イタリア)への連絡はどうしようかと思っていたら、ちょうど同館イタリア臘八大接心と時期が重なるとの平野氏の談。「ローマで坐禅会を」の話にも未だあの長靴の形でしかイメージのないイタリア。

★両替
 イタリアへ旅行するのだから現地のお金を少しは持っていかないといけないわけで、今現在のレートだとたとえば1万リラは日本円では何円なのかの簡単な計算。1万のゼロをふたつ取って、100×7=700円。リラは数字の桁が大きいので、たとえばバールでコーヒーを注文して1万リラ払っておつりをもらうという感じ。

★成田にて
 搭乗手続きでの旅行社コメントで、フランス経由エールフランス便がストで飛行機が来ず、ミラノ直通のアリタリア便に変更とのこと。フランスで乗り継ぎ四時間待ち予定だったので得した気分。

★スチュワーデス
 スチュワーデスは忙しそうで、お手拭き配り、回収、飲み物配り、紙コップ回収、ビールは如何ですか、ワインは如何ですか、水割りもありますよ、すみません毛布ください、機内食配り、食器回収、お茶は如何ですか、コーヒーは如何、紙コップ回収、すみませんもう一杯ビールください。飛行高度1万2千メートル、外気温マイナス60度。

★ミラノ到着
 午後5時ミラノ・マルペンサ空港到着、日本との時差8時間。入国審査を済ませバスで名前を一度で覚えられるレオナルド・ダ・ヴィンチホテルに直行。

★ミラノ観光
 ミラノ中心部ドゥオーモ広場周辺を観光。観光名所やショッピングゾーンから政治経済にいたるまで全ての機能が集中する場所とのこと。500年をかけ建築されたという世界最大級のゴシック建築ドゥオーモに感動。

★イタリア自動車事情
 ミラノもフィレンツェもローマも古い街並みに新たに駐車場を作るスペースがないのだそうで、道という道の両サイドにたくさんの縦列駐車。大きなワンボックスタイプはあまり見かけなく殆どが乗用車クラスの小型車で、体格の良い人は窮屈だろうと思い、ローマでイタリア人にそれを聞いてみたらやはり窮屈だとのこと。フィアットはイタリア北東部の車で、よく見かけるあの小ささの訳がわかったようでした。日本のように油煙激しい車が見あたらなかったのは、イタリア人の自然に対する気遣いなのか。場所変わればと思ったのは車と歩行者が事故った時、イタリアでは圧倒的に歩行者が悪いのだそうです。バスにてフィレンチェへ。

★フィレンツェ観光
 フィレンツェは市内への観光バス進入は一切禁止の徹底ぶりで、市内を一望できるミケランジェロ広場以外は終日歩きでの観光。道は全部石畳。自由時間にノミの市へ。店員との交渉次第で値切られるとか。茶色の革の手提げかばんを購入。

★イタリアデパート事情
 フィレンツェとローマで二度デパートに入ってみた。まずは日本のその光景となんら変わりはなく、ただイタリアにはデパートはごく少なく規模も小さいとのこと。食べ物をと思い、いつもの如く地階にエスカレーターで降りると、なんとそこは女性の下着売場。見渡すとやはりばつの悪そうな顔をした付き添いイタリア人男性も居り、少しホッとして昇りエスカレーターへ。

★イタリアチップ事情
 タクシーでは料金の10パーセント程度。ホテルの部屋を出るときは千リラ(約70円)程度。トイレを使った時は置かれた小さな皿に500リラ(約35円)程度、という具合に色んな場所でチップが必要。チップは「ありがとう、グラッツェ」の気持ちを形とするものだ、と思った。

★イタリアおしゃれ事情
 うんざりするような昨今の日本の若い女性の怪しげな黒いメイクと銀の口紅。自分に合う物を徹底的に探して身につけるからイタリア人はおしゃれなのだとか。

★イタリア便器事情
 イタリアの男性便器は朝顔がとても小さくて合理的と言えなくもないが、縦位置がまた高くて170センチの自分は少しつま先立つと大丈夫だったが、背の低い人は大変だろうと思った。

★スズメ
 外で立ったまま物を食べるのはすごく苦手だが、その時はみんなに習って某有名店の焼きパンを食べてみた。足もとにスズメが数羽やって来て、よく見ると日本のニュウナイ雀とは顔が微妙に違う。人間に邦人と外人がいるように、スズメにもそれがあるのだろうか、などと思いながら写真を撮ろうとしたら全部飛び立って、電線からしばし私を観察してました。

★ローマ2000年問題
 2000年問題はコンピューターのそれとばかり思ってたら、カトリックの本拠地ローマではそればかりではなく、キリスト生誕2000年の来年(明日から)に向けての色んな準備が大変とのこと。ローマでは観光地の多くが来る2000年に向けての補修工事のまっただ中で、トレヴィの泉もまだ足場がたくさん掛かってる状態。道路も各所で補修工事があり、2年前の長野オリンピック直前の長野市の突貫工事にも似た風景で妙に愛おしい。

★イタリアのガイド
 ミラノ、フィレンツェ、ローマ共に現地の日本人ガイドとイタリア人ガイドがついたが、実際ガイドしているのは日本人で、イタリア人ガイドは行動を共にするのみ。事情を添乗員に聞いてみたら、イタリアも不況のまっただ中で、現地日本人ガイドをつける場合は必ずイタリア人ガイドもつけなくてはいけなく、それが彼らの生活を支えてるのだそうだ。
 ローマのガイドは自分と同世代の男性だった。彼のガイドはとても楽しくてよくわかり、聞けば学生時代に旅に来てそのまま居着いてしまったのだとか。ローマは自分も住んでみたいと思う都市だった。

★距離感
 ミラノとローマの距離は500キロで、ミラノは長野よりも寒く感じた。ミラノからフィレンツェ経由でローマまでバス移動したが、ローマが暖かいと感じたのは緯度が下がったからで当然のことでした。

★ある事件
 旅行最終日の前日の夕刻、ローマでのこと。丸一日の自由行動を真歩館イタリア剣友会に随行させていただきホテルに戻ったら、旅仲間のおばさま4人組が深刻な顔でホテルマンとなにやらお話し中。仲間の一人がパスポートをなくしたとの一大事、ご当人は真っ青というより真っ白になってました。明日一緒に帰れなくなる、どうしたらいいのか。 そこにツアー仲間の若いOL2人が来て彼女達の対応は見事。JCBに電話しカードのストップ、日本大使館に電話し旅券紛失時の対応を確認、この対応の素早さと的確さで予定通り全員が無事帰路へ。

★ローマのホテルにて
 ローマのホテルは長期滞在型というらしく、内装は豪華ではないが部屋数が多く、キッチンも合わせると三部屋もあり結構広い。ベランダも広くて気分は良いが、ただし寒い。暖房が時間にならないと入らないし、入っても弱い。ホテルによってはシャワーがぬるい場合もあるとのこと。、とりあえず部屋がなかなか暖かくならないと不満を思い、反省。

★食
 一番美味く思ったのは帰路の中継地ドイツ・フランクフルト空港でのフランクフルトソーセージサンドイッチ。パンも堅くなく柔らかすぎず、ドイツビールとの相性が抜群で、手渡してくれた店員の表情も脳裏に焼き付いたほど。逆に貝はとても苦手で、ローマの昼食でみなさん舌鼓を打たれた貝料理には惨敗。エスプレッソは楽しみだったが、イタリア人はバールでこれかカプチーノを立ったまま飲むのだそうです。イタリアのミネラルウオーターは二種類あって普通の水とガス入りと。ガスは天然のガス入りのもあるそうです。チーズはさっぱりして食べやすいのがイタリアのチーズだとか。パスタやデザートに使われる他、食後にワインを飲みながら食べたりも。産地ごとに郷土色が濃く、パルミジャーノレジャーノはパスタやサラダに、やぎ乳で作ったコクのあるカプリーノ、クリーミーなタレッジョ、青かびの風味がパスタによく合うゴルゴンゾーラ。名前は忘れたがご馳走になった石鹸みたいな匂いのチーズは泡を吹きそうでさすがに食べられなかった。

★ローマの休日
 ローマ初日の昼食後スペイン広場に。日曜ということもあって、その場所はすごい人出で、石の階段に腰掛けながら日本人の黒い瞳も外国人の青い瞳も、みな同じ眼差しで同じ空気を。

★ワイン
 通ではないが時折飲んだワインは美味いと思った。ローマでのカンツオーネ夕食のワインは飲み放題で、飲み過ぎると悪酔いすると思いながら結局悪酔い。イタリア剣友会平野氏より某ワインをお土産に六本いただき、世話になった女性添乗員にも一本差し上げた。ローマのホテルで彼女がフロントマンにそれを見せたらフロントマンの顔色が変わり、ミスターナカジョウはどういう人なのかと聞かれたそうで、それほどイタリアでも入手困難な一本なのだとか。

★Mのマーク
 ローマ一号店が最近ローマにできたというMのマークのマクドナルド。ローマ市民はマックの進出に猛反対だったが、海外からの若い旅行者のことを考え実現したとのこと。誘われたがローマにまで来てマクドナルドに行かなくてもと思い断ったが、ローマ独自のマックだったのかも。

★ローマの地下鉄
 ヴァチカンのサンピエトロ大聖堂へは剣友会の方々と地下鉄で。地下鉄車両にはたくさんのカラフルで上手な落書き。ミラノやフィレンツェでも建物の外壁などにたくさん落書きがあったが、上手い絵柄だけれども悲しい仕業だと思った。地下鉄は日本のような改札はなく、キップのチェックは殆ど無いが時折抜き打ちチェックがあり、仮にキセルが見つかると大変なことになるのだとか。ご老人が立っていたので席を譲ると笑顔とグラッツェのひと言。笑顔と言葉は人の気持ちをやさしくするのです。

★松ぼっくり
 唐傘松という背が高くてちょうど傘を広げたような形をした松がローマではたくさん見られ、それがローマの景色のひとつの特徴だとのこと。コロッシアムに向かう歩道で松ぼっくりを拾ったがその大きいこと。これがあの高さから落ちてくるのだから当たると大変。

★ボンジョルノとグラッツェ。
 「ボンジョルノ」こんにちは。「グラッツェ」ありがとう。イタリア人から度々かけられたこの言葉はとても心地よい。気持ちをいつでも素直に言葉で表すことはまさに口密を生じ、今回のイタリア旅行では言葉の大切さも改めて強く感じた。





op.9 桜坂の思い出  H29/05/17 mugen

 長野の春は一気にやって来て、桜、杏、梅、桃などが一斉に花開く。善光寺裏手から本山前を通り遊覧道路に続く桜坂は、当山開山当時は空が見えないほど、桜花のアーチのようにソメイヨシノが咲いたそうだが、昭和の高度成長期以降自動車が増加し、観光で戸隠などへ向かう大型バスなども増え、排気ガスで年々桜にも悪影響が出てしまったのだそうだ。それでも十数年前から新たに桜の植樹がされ、最近では小ぶりな枝に新しい花も付くようになった。

 当山開山以来、多くの人が様々な思いでこの坂を登ってきたのだろう。私も子供の頃重いボストンバッグを提げ、これから始まる厳しい修行に不安一杯でここを登ったことなど、懐かしい思い出だ。

 無形大師の御提唱録の中にも桜坂が出てくる。まだ開山間もない頃、当初は自転車で布教にまわっていたが、某方から小さなオートバイの供養があったそうだ。無形大師は大型キャプトンのオートバイに戦闘服姿で布教にまわられたという戦後間もない頃の逸話は長老方より聞いていたが、この小さなオートバイはおそらくキャプトンの供養を受ける以前のことであろう。その小さなオートバイに求道熱心なこれまた逆にでっぷりと太ったおばさんを後ろに乗せ桜坂を、今にもエンジンが止まりそうなオートバイに「頑張れ、頑張れ」と声をかけながら登られたのだそうだ。

 私にはまた桜坂には可笑しくも忘れられない入山当初の思い出がある。本山から長野市内の夜間経済短大に2年間通わせていただいたが、全員仕事をしながらの年齢層の広い50名の入学で、無事卒業したのはちょうどその半数だった。その短大に通い始めた時のことである。当時の無老正和尚様が通学用にお寺の自転車を貸してくださった。短大までは片道5キロの道のりだ。
 
 夜間短大は夕方6時から授業が始まり9時頃終わる。それから寺に戻り食堂で夕飯を一人いただくが、寺は9時には消灯になっている。典座補佐の故清水妙舟大姉が食堂の奥の小部屋で休んでおり「清水さんただいま」と声をかけると奥から「光ちゃんおかえり、おつかれさま」といつも明るい声で答えてくれた。そんな2年間だったがその頃和歌山でコレラが流行り、当山でも一日3回の読経に加え真夜中12時と3時の一日計5回の却温秘神呪による疫病消滅祈願行があった。夜中の10時に夕飯をいただき仮眠し12時より祈願行、また仮眠し3時より祈願行、5時より通常の行息と、殆ど寝る間のない期間であったが、そんな時のことである。

 毎年4月第一週頃に桜坂に花見提灯が掛かる。夜間短大に通いはじめてじきにそれが掛かった。数日は夜半のぼんやりとした灯りを珍しく思ったが、何日目からか何か得体の知れない物が突然出てくるのではないかと本気で思うほどにその灯りの醸し出す雰囲気が恐くなった。行きはまだ明るくて下る一方だから良いが、問題は帰りの上り坂である。自転車で桜坂を上ったことのある人ならわかるだろうが、なかなかつらい距離だ。軽快なサイクリング車ならばいざ知らず、お寺の自転車は頑丈でもちろんギアなどなく、車もそんな時に限って一台も通らない。大声で歌うわけにもいかず、お経を唱えてみると怖さ倍増。ふーっとため息をつきやっと上り切ったら六地蔵。ありがたくも恐かったやらで、もう自転車は無理と思い、無老正和尚様に事情を話して笑われ、小さな赤いオートバイを貸してもらえることになった。このオートバイは前述の無形大師のオートバイとはまた違って、その頃和歌山の門弟より供養された赤い車体の目立つ和歌山ナンバーのままで、その後警察官に幾度も職務質問されたが、快適さは自転車の比にならず、おかげで2年間を無事有意義に通い切れたのだった。




op.8 藤田氏の御法要の後で  H28/12/27 mugen 

 交通の発達はその地の暮らしや、人々の生活全般に大きな影響を及ぼす。当地長野市も1998年開催の冬季オリンピックを機に高速道と新幹線が開通し、それがもたらしたその後の影響はまさにしかりである。長野駅舎も昔は善光寺本堂を模した趣深い寺社造りの様相であったが、最近では北陸新幹線開通に伴い、すっかりモダンな駅ビルへと姿を変えた。私はそんな長野駅で電車に乗るたびに無形大師のある時のお姿をよく想像している。赤本活禅にも載っている「赦す」。終戦間もなくの国鉄篠ノ井線での謄写機インクの逸話の時の無形大師のお姿だ。その頃からいうともう70年余りも経ってしまい、駅舎や行き交う人々の様子もすっかり様変わりしてしまったが、そんな中でその時の無形大師のお姿をよく想像している。
 
 大師は1994年(平成6年)に亡くなられたから長野の新幹線も高速道もご存じなかった。正確に言うと最晩年を3年間過ごされた和歌山から、終の入院先となった長野日赤までは、その前年に開通した高速道を長野インターまで救急車で長距離移動されたわけであったが。

 平成27年11月、ある方の納骨法要が本山で営まれた。昭和40年代に朝日新聞長野支局長を勤められながら、無形大師の元に熱心に参禅され、また赤本活禅の編集主幹も担当された故藤田真一氏の御納骨法要である。長きに渡る御闘病後、氏のご遺言どおりご遺体は大学病院に献体され、その後喪主の御令弟藤田守克氏により当山に御納骨された。藤田家では先に逝かれた奥様の悦子さんと、長らく本堂に絵の遺作が掛けられていたお嬢さんの真美さんは既に御納骨になっていたから、ご一家がここでまた仲良くご一緒に揃われたわけである。
 
 納骨法要には仕事のお仲間等20数名がご遠方からも駆けつけられ、法要後は長野駅隣接のホテルで偲ぶ会が催された。管長挨拶も仰せつかり、藤田氏とは年代の違いから直接の親しいおつき合いはなかったが、無形大師を始め多くの先輩方よりお聞きしてきた氏のご人格を現すお話しなどを交え挨拶させていただいた。

 お集まりのみなさんお一人お一人からのお話しもお聞きし、藤田氏のご人格を改めて思いながら、終始和やかな中にお酒もいただき、偲ぶ会閉宴後、自宅へは長野駅から電車で帰った。穏やかな余韻に浸ったまま、この時も謄写機インクの無形大師の逸話も思い出しながら長野駅を改札へと向かった。
 
 話に聞いたことはあったが、かつて伊豆急行を走ったという窓からの眺望の大きく開けたロマンスカーが帰路のホームに止まっていた。「ちょうどよかった」。切符を買い早速乗り込んだ。数分経ってロマンスカーは発車したが、降車駅の信濃吉田駅まではほんの数分の道のりだ。偶然にもこんな素敵な電車に乗れたのだから、もう少し長く乗っていたかったなどと思っていたら、電車はじきに信濃吉田駅にさしかかり、常日頃見慣れた景色が窓外に広がってきた。席を立ち出口に向かおうとした時、「この列車は急行ですので信濃吉田駅は通過し、次の停車は須坂駅になります」の車内アナウンス。「どうしよう」今まで経験したことのなかった乗り越しで、恥ずかしながら一瞬途方にくれた。ちょうどその時若い車掌が来たので事情を話すと、車掌は満面の笑みでこう教えてくれた。「そういう方がよくいらっしゃるんですよ。そうすれば次の須坂駅で降りて階段を上って、ホーム上の通路を改札に向かい、そこに居る駅員に事情を話して下さい、帰りの切符をくれるので、この電車の止まった反対側のホームで次の電車をお待ち下さい」。とのことだった。
 
 事無く帰れるんだという安堵感と共に、その車掌の温かでやさしい対応の姿にはからずも感動した。言われたままに改札口に行き事情を話すとまたこの駅員も満面の笑みで応対してくれ、丁寧に乗り場を教えてくれた。夕刻の風が少し肌寒く感じるホームに立ち、「今度は間違えないように」と思っていたら、まだ止まっていた反対側のホームの、さっき乗ってきたロマンスカーのあの車掌が窓から身体を乗り出すようにして大きな声で「お客さん、次の電車に乗ってはいけませんよ。次の電車はまた急行ですから、また元の長野駅に戻ってしまいますよ、次の次に来る電車は鈍行ですから、それに乗って下さい」と教えてくれ、ロマンスカーは大きな窓の残影も鮮やかに行ってしまった。
 
 「こんなことってあるのだろうか、いくらローカルな場所だからといって、今の時代に電車の窓から車掌が大声で気遣って親切に教えてくれるなんて、都会では絶対にないことで、ローカル地の良さではあろうが、でもこんなことってあることなんだろうか」と、今起きたばかりの嬉しい体験を何度も何度も繰り返し思い出しながら感慨にふけった。
 
  あるいは電車会社の方針による社員教育の徹底により、あのような対応がされたのかもしれない。でもこんな自分にあのような、まさに和顔愛護の慈悲心から沸き起こった仏行のような温かい親切な対応をすることが出来るのだろうか。きっとこれは今日の藤田氏のお徳が知らず知らずの内に私に見せてくれた感応道交に違いない。徳を以てことに当たれば、徳を以て回向返照になり、その結果として必ず無上の悦びを得られる。「徳を以て生き抜き、そして徳を以って未来へと旅立て」藤田氏のそんな言葉が聞こえてくるような気がした。
 
 無形大師の謄写機の逸話と、藤田氏の御尊徳と、さっき出会ったばかりの車掌達とのことをずっと想いながら、やっと自宅へとたどり着いた。長い一日だったがでもとても心暖まる一日だったと、帰宅後も繰り返し今日あったことを思い返していた。



 

op.7 とんぼ  H28/09/03 mugen

 とんぼは俳句の秋の季語にもなっているように、その姿は懐かしく優しく、そして少し物哀しい。季語での言い換えも多く、やんま、鬼やんま、銀やんま、腰細やんま、黒やんま、更紗やんま、青とんぼ、塩辛とんぼ、塩屋とんぼ、塩とんぼ、麦藁とんぼ、麦とんぼ、虎斑とんぼ、高嶺とんぼ、精霊とんぼ、仏とんぼ、赤とんぼ、秋茜、深山茜、眉立茜、八丁とんぼ、腹広とんぼ、昔とんぼなどがあり、親しい某方を連想する渋ちゃんというのまである。
 
 無形大師(当山開山)の御提唱録に鳥や虫はそう多くは出てこないが、これは無形庵当時の寺内誌「延命」に登載されたものである。赤とんぼが先祖の霊になり戻ることは古くより言われてきたが、まさにそんな光景を心情豊かに綴られている。話は当山裏手の善光寺納骨堂の参道より始まり、山川草木悉有仏性を説く尊厳かつ軽妙な記述で締めくくられている。

    ****************************************************************************

                      赤とんぼの思い出  (庵主無形)

 黄ばみ始めた参道の桜並木をぬって、とぼとぼと登ってきた二人連れの老人があった。もはや二人とも七十坂を過ぎた大老で、それでも爺さんの方は幾分か元気だったが、婆さんの方は全身をお腰の辺りから二つに折って青息吐息、苦しそうなあえぎを続けて一足刻みに辛うじて登ってくる。つるべ落としの秋の日が大峯の山の端近く、何となく物寂しい人の子一人通らない夕暮れのひととき。納骨堂の英霊に夕方の祈りを捧げての帰途、自分は階段下の石灯籠を盾に、見るとはなしの眼下に見える善光寺下の古戦場に遠く思いを走らせていた折も折とて、なんだかこの老人夫婦に言葉をかけてやりたくなった。

 「婆さん、もうすぐだよ。それそれ豊が迎えに来よったじゃないか」「それ、赤とんぼになって、婆さんの肩を見なよ」
 二つ折りになってあえいでいた婆さんが、爺さんの言葉を聞いて真顔になって立ち上がり、お腰をやれやれと伸ばした。と又、爺さんの言葉、「それ婆さんや、お前気荒に立てるので、豊がびっくりしてお前の肩から飛び立ってしまったじゃないか」 婆さんの肩にとまった赤とんぼが驚いて一度は飛び立ったが、また老婆の肩にとまって死んだかのように静かに動かない。やっと気づいた婆さん、急に驚き「あれほんにまあ、このとんぼは豊にそっくりだよ。爺さん、このとんぼは確かに豊だよ。豊の顔にそっくりじゃねえか、われ豊だな、われ、おれ墓参りに来ること解ってたのか、おめえは勘の良い子だったものなあ。この寒くなったのに、こげな薄い着物着てくるなんて。おめえ苦しんどることだろうなあ。心配するな、今日は母さんがうんとこさお賽銭をあげて阿弥陀様に、われがこと良う頼んでやるからな、心配するな、心配するな」
 「婆さん、おかしなこと言ってるだよ。宿で講の仲間が皆待っているだから、早うお参りすませて降らんと日が暮れるじゃねえか。さあ今一度踏ん張れ、元気を出しなよ」

「あれ爺さん、おめえ気短かなこと言うもんで、豊の野郎、爺さんにすまん思ってか飛んで帰ったじゃねえか。お前も何か言ってやれば良かったに。あほな爺さまだ。せっかく豊に会いたいばかりに、はるばる参りにきよったじゃないか。おめえほんとにあほーだよ。まだ話しがたくさんあったのに、豊さ追い返してしまって、豊、豊、お前どこへ行った。爺さんなど何言ったってかまやしねえ、もう一度おれの頭へでも、肩へでも帰ってきなよ、豊、豊や」

 婆さんの目にはもはや「赤とんぼ」ではなかった。軍服姿の村上豊兵長の戦に疲れた哀れな姿と見えたことであろう。声もかすれて、老いの目には早くも悲しみに耐えきれぬ涙の露が光っている。
 
 さりげなく赤とんぼのことを一笑に付して口には元気なことを言いながら、さすがに爺さんの顔にも隠しきれぬ、満たされない色がうかがわれた。婆さんはまたしかたなしにあきらめて、全身を二つに折って、とぼとぼと登りかけたが、今度は爺さんの方がどうしたのか無形の立っている階段下に立ち止まって、右を左を上を下をと、何者かを追い探している。

 先刻の「とんぼ」が気になるらしいと見て取った無形は、二足三足爺さんに近づいて「ご苦労様、お参りかね」ときわめて気軽にと思って話しかけたが、爺さん大変驚いた様子で、「これはこれは和尚様、あなた様こちら(善光寺納骨堂)の御住持かね」「いや違う、わしはこのすぐ下の松林の中に屋根が見えるだろう、あの庵の庵主で毎日夕方こうして戦死なさった内外のお気の毒な兵隊さんにお参りに来ているのだよ。お前さん方どちらからお参りなすったかね」「わし埼玉県でね、善光寺様へ講でお参りに来ただが、一緒の衆は宿に泊まっておるで、わしは戦死した一人息子に会いに来たが、和尚様、まあほんに俺しあわせ者だ。こんな時分に、こんな山の上にお参りに来て、しかも和尚さんに豊の墓の前で会うなんて、こりゃきっと生前信心深かった豊が和尚さんに、ここでおら達の参拝に来るのを待っててもらったんだよ。ありがとう、ありがとう。今もね、ここで婆さんが不思議なとんぼと話をしていたところだが、なんだかおいらまであのとんぼは豊の身替わりのように思えてきて、今一度正体を見届けておきたいと思って、今探していたところだが」

 「いや、旅のお方、お前さんところの豊さんは今までここでわしを待たせて、お前さん方を納骨堂に案内してくれと頼んで先に帰ったところだろう。さあ私が今一度一緒に登ってお経をあげてさし上げましょう。きっとわしと一緒に参拝するのを待っていることでしょう。この石段さえ登ればすぐお堂だから、いや、豊君のお家がありますよ。さあさあ参りましょう」と無形は先に立って婆さんの前に廻って両手を引いて後ずさりに登って行った。

 親切で世話好きとして知らぬ人のない歌人の田中半茶先生は、さっそく何事も放り出して本堂に赴き、書記の原山氏に来意を伝えられ、いとも丁寧に招じ上げられ、ご本堂に上がり、幾十万と数知れぬ御霊骨の中から、番号札も新しい豊君の御霊骨を取り下ろされて、ご本堂の金堂前に安置された。そして無形は心ゆくまで読経回向に勤めた。御回向を終えて壇を降りた時に、まだ老夫婦はむせび入って泣いていた。その時不思議にも一匹の赤とんぼが金堂の前に飛び込んで、ご両親の頭の上を右に左に慰めるかの如くに舞って、木魚の上に静かに止まった。

 「お爺さん、あれちゃんと豊君がわしのお経で立派に成仏して、お前様方の頭の上を今の今まで飛び回って遊び、それあのように木魚の上で静かに喜びの羽ばたきを見せているではないか。豊君がきっと立派に成仏して、安心して安らかな世界で、静かにご両親のご健康を守っていてくれることがお解りだろう。さあ、これで意義は十二分だ。だいぶ暗くなったから、そろそろお宿まで下りましょう。仏教では感応道交と申してな、色々な姿となって会うことができるのだよ。赤とんぼばかりじゃない。天地間の草も木も、犬も猫も、火も水も、世の中の一切が豊君の成仏の化身ですよ。大切に守り、また大切に守られて、みんな安らかな世界を築こうじゃないか。今日から一所懸命、休む時も仕事をする時も、食事の時も、いつもいつも南無三宝供養一切成就とお唱え申しましょう。これが何よりも死んだ豊君への供養だよ、回向だよ。しっかり覚えなよ。よろしいかな」

 爺さんの言う如く、豊君の霊の因縁が引き合わせた仏縁だと思うと、このまま別れる気持ちもせず、ついに大門の宿まで送り、黄昏れた秋の夕暮れを善光寺の鐘に送られて、静かに延命山の松林に道場への道を急いだ。

 豊君の霊よ、安らかに眠れ。豊君の成仏、願生の化身達よ、満天下の草木よ、満天下の動物達よ。いや、満天下の法縁の一切よ。安らかに、高らかに御仏の大慈悲の歌を歌い、共に真実和合の浄土を築こうではないか。(昭和二十五年十月三日)




op.6 日本の仏教(平安鎌倉期の概要)②-②  H28/07/01 mugen

  禅の修行を続けていくなかで、仏教の歴史等の概要を知ることは意義深い。今回は現在の日本仏教がほぼ形成されたと言っても過言でない平安鎌倉期の僧のうち、最澄から日蓮、空海から道元、法然から親鸞への仏教思想の流れを管長教学ノートより抜粋し復習したい。

 最澄は仏教を小乗と大乗に分け、大乗を小乗よりも優れた仏教と見なし、比叡山に天台宗を開き大乗仏教の総合化に心血を注いだが、最澄の選択をさらに深めたのが日蓮である。最澄は大乗を選択し、多様な大乗仏教を一つに体系づけて総合化しようとしたが、日蓮は、時代はもう末法の時代と言われる鎌倉時代であり、大乗仏教の総合化などと悠長なことは言ってられないと考え、天台宗の根本経典であり、大乗仏教で最もすぐれた経典である法華経だけで良いではないかの考えのもとに、最澄の選択をさらに深めていった。大乗の数多くの経典の中から、天台宗の根本経典である法華経だけを選択し、末法の世における修行法として、南無妙法蓮華経という法華経の題目を唱えることを説いた。
 
 道元は空海の選択を深めた。道元は19歳の時に一つの大きな疑問を持った。それは一切の衆生に悉く仏性があるのならば、どうしてさらに修行をする必要があるのかというものである。この疑問には従来通りの難しい理論、つまり煩悩を消して悟りに向かい始める始覚と、人間の心にそもそも備わっているものとしての悟りを示す本覚からなる始覚本覚の教学によれば理論的な答えはすぐに出るが、そんな教学的な答えでは満足できなかったのである。道元はこの疑問を解消するために中国に渡った。道元は中国で理論ではなく、色々な体験を通して仏教を学ぶことになり、この疑問に対する回答をも体得した。それは仏になる為の修行など凡夫にはとうてい出来ない。仏だからこそ修行ができるのである。したがって修行とは凡夫が仏になる為にするものではなく、一切の衆生は悉く仏性を持っているからこそ修行するのであるというものであった。つまり仏になる為に坐禅修行をするのではなく、坐禅をする姿がそのまま仏の姿なのであるという修証一如の考え方を会得したのである。道元のこの考え方はまさに空海の即身成仏と共通している。それはどちらも、もう既に仏になっているのだ。仏だから仏らしく生きていかねばならないというものである。しかし道元はこの考え方を空海と同じように密教の複雑な修法によって得たのではなく、只管打坐、ただひたすら坐禅するというぎりぎりにまでシンプルなスタイルの中に見いだしていった。

 親鸞は浄土門の易行という法然の選択をそのまま継承し、これをさらに徹底したものに突き詰めていった。法然が易行として選んだのは称名念仏という修行法だった。しかしいかに易行とはいえ、それが修行である以上は念仏を何回唱えれば良いのかとか、本当に心から念仏を唱えることが凡夫に出来るのかといった問題がどうしても生じてくる。どんなに易しくしてもそれさえも出来ない人にとっては難行になってしまうからである。そこで親鸞は修行という自力の要素を全て捨て去ってしまう。念仏を唱えるという最後の自力も捨て去り、自己の存在を完全に阿弥陀仏の本願力に任せ切ってしまえと説いた。阿弥陀仏は困っている者に対しては、それがどんな者であろうとも救済の手を差しのべてくれ、そこに必要なのは困っているという事実だけで良いとした。我々はややもすると念仏を唱えることにより、往生という結果が得られると考えがちであるが、このように念仏を唱えることと往生とを因果関係でとらえると、凡夫の意思の下に阿弥陀の本願力を従属せしめることとなり、阿弥陀仏は絶対的な存在ではなく、我々が念仏を唱えたり唱えなかったりすることにより、救われたり救われなかったりする存在にしてしまう。つまり念仏を唱えようという心が我々に起こるのは、阿弥陀仏の加持力であり、我々が念仏を唱えようと思い立った時には、すでに阿弥陀仏が我々に働きかけてくださっている。阿弥陀仏に念仏を唱えさせていただいているというのが親鸞の考え方である。では救いを求めて念仏を唱えるのでなければ、どうして念仏を唱えたりする必要があるのかというと、それは阿弥陀仏によって既に救われていることに対する報恩感謝のためであるとする。したがって法然の念仏が「阿弥陀様、救ってください」であるのに対し、親鸞の念仏は「阿弥陀様、ありがとうございます」となる。こうして親鸞は法然の選択した易行をとことんまで徹底させることによって、絶対他力の境地へとたどり着く。

 以上のように最澄から日蓮、空海から道元、法然から親鸞へと、平安仏教から鎌倉仏教への仏教思想の流れを見たが、なかでも空海による密教の考え方は道元だけにとどまらず、日蓮と親鸞にも多分に影響を与えた。

 空海は法身説法を説いた。法身説法とは、法身である大日如来が直接我々に法を説いてくださるという思想である。法身とは、時間空間を超越し、宇宙全体を包括する宇宙仏を指し、空海は、顕教では宇宙仏は自らの説法はせず、分身である釈迦牟尼仏が宇宙仏と人間とを結ぶ媒体となって説法をする。対して密教では、その分身仏の媒体なしに、宇宙仏である法身の説法を直接聞こうとする。ただ、法身大日如来は常に四方八方に教えを説いているのに、我々の受信機がほこりだらけであるが為にその教えをしっかり聞くことが出来ない。そこでほこりを取り除き、感性を研ぎ澄ませば法身の説法が直接に聞ける、と法身説法を説いた。日蓮もまたこの法身説法の教えを持っており、法華経に説かれている釈迦牟尼仏は分身仏であると同時に、宇宙仏でもあると説いた。つまり釈迦牟尼仏は三身に説く法身、報身、応身の全てを具えた仏であると説いた。また親鸞の絶対他力は、まさに密教の加持の理論と同じである。親鸞は南無阿弥陀仏と唱えようという心を起こしたその時に、すでに阿弥陀仏は働きかけてくださっているとするが、空海も凡夫が仏になろうとして一歩を踏み出した時に、すでに凡夫は仏になっていると説いた。また親鸞は阿弥陀仏の力によって念仏を唱えさせていただくとするが、空海も真言を唱えることは仏の口密としてとらえている。このように日蓮と親鸞の思想にも空海の密教的な考え方が多分に影響した。

 ・ 最澄 (767~822) 55歳 (没)
 ・ 空海 (774~835) 61歳 (没)
 ・ 法然 (1133~1212) 79歳 (没)
 ・ 日蓮 (1222~1282) 60歳 (没)
 ・ 道元 (1200~1253) 53歳 (没)
 ・ 親鸞 (1173~1263) 90歳 (没)

【 ご参考までに 】
 宗教修行形態の大まかな分類 (管長教学ノートより )
 ○ 誦行 (じゅぎょう) 南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏といった宗教的理想を織り込んだ定型句を、反復口誦する行。
 ○ 揺行 (ようぎょう) リズミカルに身体を揺する行。
 ○ 打行 (だぎょう) 鼓鐘などを連続的に打つ行。
 ○ 書行 (しょぎょう) 聖典などを浄写する行。
 ○ 徒行 (とぎょう) 山岳を歩行したり、聖地を巡歴する行。
 ○ 息行 (そくぎょう) 呼吸法による行。
 ○ 観行 (かんぎょう) 定められた順序に従って一定の心象イメージを心に浮かべる行。
 ○ 疑行 (ぎぎょう) 禅の公案のように、ひとつのことに意識を集中させて、深い境地に入ろうとする行。
 ○ 静行 (せいぎょう) 観行や疑行のような工夫をせず、ひたすら瞑想する行。
 ○ 水行 (すいぎょう) 水垢離や滝の行。
 ○ 火行 (かぎょう) 火渡りや護摩のように火を用いる行。
 ○ 断行 (だんぎょう) 火、穀物、茶、塩などの日常生活に欠くべからざる物を絶つ行。

                             

op.5 日本の仏教(平安鎌倉期の概要)②-①  H27/12/03 mugen

 禅の修行を続けていくなかで、仏教の歴史等の概要を知ることは意義深い。今回は現在の日本仏教がほぼ形成されたと言っても過言でない平安鎌倉期の僧、最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞について、私の教学ノートより抜粋し復習したい。

○最澄、空海、法然
 平安鎌倉期の代表的仏教者としてまず最澄をあげることができる。最澄は仏教を「凡夫が仏を目指して一所懸命に修行するもの」と解釈した。凡夫が修行を積んで最終的に仏になるとするわけである。したがって最澄によれば修行中の人間はまだ凡夫である。しかし平安仏教のもう一人の代表者空海は最澄とはまるで逆の考え方をした。空海は「仏を目指して歩みだした者は既に仏であり、凡夫ではない」という解釈をした。最澄によると、凡夫が修行をして仏になるには、三大阿僧祇劫というとてつもなく長い期間にわたって生まれ変わり死に変わりしながら修行を継続させていかなければならないのだが、空海は「仏になるための一歩を踏み出した者は、その瞬間に既に仏となっている」のであるとする「即身成仏」の考え方をしたのである。そして最澄が凡夫から仏への道としてとらえた修行を、空海は「即身成仏」の見地に立って、仏から凡夫への働きかけによる「加持」としてとらえた。仏から力が私たちに加わってきて、それを私たちがしっかりと持つこと、この加持によって凡夫は仏への道を仏として歩ませていただくとした。

 さらに最澄は仏教を小乗と大乗に分け、大乗を小乗よりも優れた仏教と見なした。比叡山に天台宗を開き大乗仏教の総合化に心血を注ぐのである。一方空海は仏教を顕教と密教に分け、密教を顕教より優れた仏教であると位置づけた。そして密教を日本に定着させなければならないと考えたのである。このように最澄と空海はまるで異なった考え方をしていた。また最澄は「小乗より優れた大乗の中に顕教も密教も含まれる」と考え、顕教は自分が受け持ち、密教は空海に手伝ってもらうことによって、共に比叡山に於いて多様な大乗仏教を総合化しようと考えていたのである。しかし空海にしてみれば顕教の中に小乗と大乗が含まれ、その顕教より優れた教えが密教なのであって、密教を単に大乗仏教のひとつとする最澄の考え方には同意できるものではなかった。そこで結局二人は袂を分かってしまうことになる。

 平安時代のもう一人の巨匠法然を鎌倉仏教の人と位置づける人もいるが、法然は平安時代四十三歳の時、立宗開教を宣言し、生涯七十九歳の大部分を平安時代に過ごしている。法然は最澄が仏教を小乗と大乗に分け、空海が顕教と密教に分けたように、難行を説く聖道門と易行を説く浄土門とに仏教を分けた。ただし最澄と空海がその優劣によって仏教を分類し、優れた方を選択したのに対し、法然は仏教の優劣は問題にしなかった。法然は聖道門と浄土門とを比べ、聖道門の仏教を浄土門の仏教より正統的な仏教であるとは認めたが、時は末法の世であり聖道門の説く難行を実践することは無理であり、自分たちのように機根の劣った者には浄土門の説く易行しか実践することはできないと判断した。つまり法然の選択は教えの優劣による選択ではなく、時代性による選択だったのである。

 以上のように平安仏教の三人の巨匠は、仏教を二種類に分け、そのどちらか一方を選択したという点において共通している。最澄は大乗を、空海は密教を、法然は浄土門を選択した。修行法としては最澄は「凡夫から仏へと一歩一歩進んでいく」方法を、空海は「加持によって即身に成仏する」方法を、法然は「浄土門」に説かれる易行を選び取った。このような三人の選択を受けその後の鎌倉時代には、この三人の選択をそれぞれにおいてさらに深める三人の僧が登場してくることになる。(続く)



 

op.4 辞職峠  H27/08/29 mugen

 「その昔、人の移動がまだ徒歩中心だったころ、この峠の先の地に赴任した教師が、峠の往来のあまりにもの過酷さから、赴任後間もなく何人もが続けて辞職願いを出してしまったことの逸話から、この長く険しい山道に『辞職峠』の名が付いた」という運転助手席にいた父の話を聞きながら、祖父無形大師のお供でその日初めて訪れる創設から六百年を経るという臨済宗の古刹を目指していた。

 坂本龍馬が土佐藩を脱藩した際に歩いた道は「龍馬脱藩の道」として今なお龍馬ファンには根強い人気スポットだが、古刹は高知県高岡郡檮原町茶ヤ谷の、まさにその古道に沿った日当たりの良い高台に佇んでいた。

 その古刹のある檮原町は大師郷里の四万十町影野よりは六十キロ程の道のりだが、往来は前述の如く山道であったから実際よりも随分遠い印象があった。最近では、と言っても平成七年だが第一回全国棚田サミット開催の地としても知られる四万十川上流の山間の地である。

 訪問より先に紹介の方から一報入れてくださっており、ご住職夫妻は大変緊張された面持ちで我々を迎えてくださった。四十半ばと思われるご住職は洗いざらしの茶の作務衣に身を包まれ、ご住職に寄り添うようにして優しいお気づかいの絶えない奥様ともにお二人の日常の実直で慎ましやかな暮らしぶりが伺い知れ、お顔を拝しただけでこちらまでがたちまち穏やかな気持ちになれたことも印象深かった。

 大師は本堂でお参りを済まされた後、お茶をいただきながらご住職夫妻と小一時間お話をされたが、「たとえ誰一人参禅に来なくとも、あなたはいつも坐っていなさい」とご住職に言われた。また、奥様が九州のご出身だとのことから話が進むうちに、かつて大師が本山開山以前に福岡で大変お世話になった方の血縁に当たる方であることが分かり、今日の来訪はまさに御仏のお導きであろうと、大師はその機なる御法縁をたいそう喜ばれた。

 その後ご夫妻は二度ほど当山に大師を訪ねられ、所属する某寺院の僧堂で当時雲水をされていたご子息も、親しく当山に一年余り参籠されたことも昨日のことのように懐かしく思い出される。その後数年にしてご一家は奥様の郷里である九州の寺院に居を移されたそうだが、ご子息も今やりっぱなご住職となられ活躍されていることだろう。

 この時には実はもうひとつ忘れられないエピソードがある。当時大師の車は門弟から寄贈された排気量四千三百CCもある黒塗りの大型車だったが、その「辞職峠」での帰路のこと。いささかお疲れ気味の大師と父は後部座席ですっかり深い眠りについておられた。車が大きくてしかも曲がりくねった細い山道の連続だったから、私もいささか運転に疲れ、峠を下りやっと広い国道に出た瞬間にフーッとついたため息と共に気が緩みアクセルをつい深く踏み込んでしまった。そこにちょうど速度違反取り締まり装置、いわゆるねずみ取りがあり、警官による車の誘導の後、調書を取られることとなった。目を覚まされた大師が「どうしたか?」と言われたので、「このまま少しお待ち下さい」と返事し急ぎ調書をすませ、改めて影野の自宅へと向かった。

 この時、辞職願いを出さねばとは毛頭思いもしなかったが、その昔、不本意にも辞職願いを出さざるを得なかったという教師の方々へ思いを馳せたことだった。
 



op.3 続・鳥の仏教 命の重さ  H27/07/13 mugen

 某年梅雨の最中の七月中旬、長野市内で行われる某男性歌手のコンサート会場へ向かっていた。「清河(チョンハー)への道」に代表される彼の無骨な声が良く、歌う前のビールの乾杯の男っぽいパフォーマンスも楽しみにしていた。

 夕刻の小雨降る中、家路を急ぐ人と車の途切れない路上に、何かを囲み喧噪する大勢の人垣が見えた。辺りの家からも一斉に好奇の目が注がれている。事故だろうか。動悸の高鳴りを覚えながらのぞきこむと、視線の先には投げ捨てられたゴミのように横たわる小さな黒い塊が見えた。

 目を懲らすと一羽のカラスだった。背の高い街路樹のヒマラヤ杉の巣からアスファルト路面に直下したらしく、濡れ羽色の言葉通りの雨に濡れて黒光りする小さな体を横たえ、鋭い目線と共にくちばしを震わせながら紅いのどを見せ人を威嚇している。動けないので車にいつひかれてもおかしくない状況だ。

 幼鳥と言ってもカラスは凶暴なイメージがあり、路面すれすれにまで威嚇してくる親ガラスの脅威もあって誰も怖くて手を出せずに、ただ見守っているばかりである。

やり場のない怒りが湧いた。あの子ガラスがもしも自分の子供だったらどうだろう。目に入れても痛くないという孫だったらどうだろう。怪我をして動けなく今にも車にひかれそうになっていたら、誰でも我が身の危険などかまわずに助けようとするだろう。それが鳥だから見ているだけというのは実におかしい。鳥も人も命の重さに変わりはない。命が大切なのは鳥も人も同じだ。

 そこに集まっている全ての人が薄情なエゴイズムの塊に思えた。自分が救わねばと咄嗟の行為に出ていた。近くの家で段ボールをもらい、それにカラスを乗せようと試みた。親ガラスの空中からの威嚇はこうもり傘で避けた。

 そうした自分の行為に人々は感嘆の声をあげた。段ボールを広げ棒でカラスを乗せようとしたが、横たわった小さな体は意外に重かった。目は虚ろだがまだ息はしている。頑張れ、大丈夫だ、生きろと念じた。

 道脇の畑まで引きずる途中で「死んだ」と直感した。驚いたのはその時で、ずっと威嚇し頭上を飛び交っていた親ガラスは、さっとヒマラヤ杉のてっぺんに飛び去り、向こうを見たままもうこっちを振り返ろうともしない。野生だ。子供の絶命を彼らは野生で感じたのだ。

 放送局のカメラマンとインタビュアーが自分にカメラを向けインタビューを始めた。近くの放送局がカラスの巣を撮り続けていたらしい。
「カラスを救ってどうでしたか」と聞かれた瞬間、我慢していた怒りが言葉になってしまった。

「あなた方は何をしているんですか。人もカラスも命の大切さは同じでしょう。もし自分の子供があそこに横たわっていたとしたら、あなたがたはどうにかして助けようとしたでしょう。カメラを向け撮り続けてはいなかったでしょう。命の重さは人もカラスも変わらない。命が大切なのは人もカラスも同じでしょう」と、興奮醒めやらぬ回答のテレビ放送は勿論没となった。

 複雑な思いのままコンサートに向かった。楽しみにしていた乾杯もあったし、彼が亡き父親を詠った「清河への道」も聴いた。命、野生、エゴイズム。三つの言葉が頭を巡っていた。
 
 人間は万物の霊長だと言うが、人間が本当に霊長であると誇りを持って言えるためには、万物の命についてもう一度しっかりと考え直してみる必要があると思った。





op.2 鳥の仏教 H27/06/17 mugen

 チベット人仏教徒の手によって17~8世紀に大乗経典を模して書かれた経典「鳥の仏教」には、観音菩薩の化身としてのカッコウをはじめ、オウム、ハゲタカ、鶴、カラス、雁、セキレイ、鴨、雷鳥、鶏、ヒバリ、クジャク、チョウゲンボウ、フクロウ、ウズラ、ヤツガシラといった我々にも馴染みの深い鳥がたくさん登場する。それぞれの鳥を諸天善神や庶民に置き換え、仏教の教えを美しい物語調でわかりやすく親しみやすく説き、人と鳥の関わりが場所や時代に関係なくずっと続いてきたことを思わされる。鳥好きの私にとっては大変興味深い経典だ。

 日本野鳥の会創設者故中西悟堂氏の逸話も楽しい。氏は詩人であり僧侶でもあった人で、寺の裏山で坐禅を組みながら、頭や肩にやってくる鳥やウサギやリスと戯れた少年時代の体験から野鳥の会創設に至ったとのこと。現在普通に使われる「野鳥」や「探鳥」といった言葉は氏の造語らしい。

 子供の頃から大の鳥好きだった私は鳥から命の重さを教わってきたように思う。その頃流行った雀の雛養いでは親鳥の代わりにきな粉の練り餌を一日中食べさせないといけないので、菓子箱に綿を詰めた巣箱を学校へも持って行き、授業中は腹を空かせた雛が教室の隅でピイピイ鳴いたが、教師も大らかで一緒に餌を食べさせたりもした。鳥籠の入り口を開けると外に出て夕方自分で籠に戻るよう上手にしつけることもできた。
 
 メジロも飼い鳥で人気のあった鳥であちこちの家の軒先で飼われた。メジロは囮を使って鳴きの良さそうなのを捕獲するが、こういった遊びの背景には必ず指導者的な年上のガキ大将が何人かいて手取足取り教えてくれた。我々はまたそれを年下の子に実践しながら教えた。メジロの天敵がモズで鳥籠から頭だけをちぎってハヤニエにするのでモズにはいつも要注意だった。そんなモズも雛を飼うと意外に行儀が良く、藁巣の中を糞で汚すことはなかった。
 
 庭の枯れ幹に日本最小のキツツキのコゲラがくちばしのドラミングで巣穴を掘りだした時は、嬉しくてずっと観察した。巣に近づくといけないと思いながら隙を見て器用に掘られた巣穴を覗いていたら、それっきり来なくなりがっかりした。つがいの鳩はリンゴ箱の鳩舎で飼い、一日数回の放鳥。ブーンという独特な羽ばたき音を立て空を飛ぶ姿を目で追い、人も鳥のように自由に飛べたらといつも思った。鳩は懐いていたので、体温を感じようと抱卵中の腹に手を差し込もうとした瞬間に手が切れるほど羽根で強くたたかれ、鳥の強烈な母性に圧倒された。

 探鳥地としても名高い戸隠に近いこともあり、当山の周りでも四季を通してたくさんの鳥に会うことができる。私が寺に来た昭和50年頃は、冬はキジの群れもよく見た。最近キジがいないのは温暖化による生態系の変化なのだろう。日本の野鳥では一番小さなキクイタダキの群れも見たが、これも最近は見ることがない。
 
 日本三鳴鳥のうちのウグイスとオオルリは春から夏にかけて大雄殿奥の雑木あたりでよく鳴き、駐車場のエンジュの木の実をイカルが大きな黄色のくちばしで割って食べる頃には、実を割る独特な音がよく響く。カラスがクルミやどんぐりを空中から地面に落とし割って食べるので、風向きによってはそれが寺の窓ガラスに当たりとても驚く。群れで動く小さなエナガは、さえずりと繊細な動きがとても可愛い。頭の赤の模様が特徴のアカゲラや、翡翠色の美しいアオゲラを見ると、そのたびに息を飲むほどに感動する。
 
 野鳥の餌台は生態系を崩さないよう、自然の餌が少なくなる冬季の設置に限られるが、管長室の窓際に設えた餌台には、シジュウカラやヤマガラなどがよく集まる。ヒヨドリはミカンやリンゴが好物だが、威嚇して他の鳥を追い払ってしまうので困りもの。ぴょこんとおじぎをしながら尻尾を振るジョウビタキは、餌が生虫なので餌付けは難しい。一年を通して見られるキセキレイや背黒セキレイは、春から夏にかけてのさえずりの美しさにも惹かれる。
 
 巣から落ちたカワラヒワやムクドリなどの世話もしたが、ツバメは初めてだったので気を使った。巣から落ちた雛は体温が下がらないように、まずは温めることが大事で、弱ってる雛に水を飲ませると体温低下でたちまち死んでしまう。健康な鳥の体温は40度以上。
 
 セキセイインコはもともとはオーストラリア原産の野鳥で、オスの雛を一羽で飼うと話をするようにもなる。黄色の身体に赤い目のルチノー種のモンタはよく喋るように育ったセキセイインコで、「南無三宝供養」と教えるうちに言うようになった。事務室で放し飼いにしたが、うどんを食べてるとドンブリに飛び込んで行水するのにはまいった。そのうちに寺を留守にすることが多くなり、知り合いのお宅で飼ってもらうようにしたが、小学生のお嬢ちゃんはモンタを神様の鳥と呼びずっと大切にしてくれ、死んでからも庭のお墓に毎日手を合わせてくれた。
 
 人も鳥も命の重さに変わりはない。まさに山川草木悉有仏性だ。悲惨な事件の相次ぐ世相の中で、命の重さは万物に共通と説く仏の教えの必要さを改めて感じる。





op.1 鎌倉大仏 H27/06/04 mugen

 
 
かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな (与謝野晶子)
 
 鎌倉といえば私はまず鎌倉大仏を連想する。静かな街並みに突如といったふうに現れるどっかりと座したお姿はいつ拝してもありがたく、心が洗われるような不思議な安堵感を覚える。 
 明治生まれの歌人与謝野晶子が鎌倉大仏をお釈迦様と詠った冒頭の歌碑は大仏裏手の観月楼前に立つが、鎌倉大仏はお釈迦様ではなく実は阿弥陀如来で、手に組む印は坐禅の法界定印ではなく、九品に説く阿弥陀如来の中でも最上位を示す上品上生印だ。
 
 本年一月、当山鎌倉洗心坐禅会新春参禅会にお招きいただき、初めて電車で訪問した。主催者の叶沢正覚居士が最寄りの大船駅まで車で迎えに来て下さった。大船はかつて松竹撮影所のあった所で、往年の名監督小津安二郎作品の中でもとりわけ好きな突貫小僧ら名子役の演技が心に残る無声映画などを思い出していた。 
 お宅で奥様に挨拶を済ませ、まずはさっそく鎌倉大仏へ向かう。一月と言えども鎌倉では珍しいという小雪舞う中だった。何処に限らず訪問した場所に付随する印象をよく覚えていることがあるが、鎌倉大仏もかつて来た時の駐車場の印象なども覚えており、係の人の様子までもが妙に懐かしかった。  
 
 大勢の観光客に混ざり鎌倉大仏高徳院境内に入る。中国や韓国あたりからの観光客も多いが、彼らの信仰の強さを現す五体投地の敬虔な祈りの姿には、二度三度ならずも心奪われた。 
 境内入り口から大仏を遠目に拝み歩を進め、真っ正面から仰ぎ見る。得も言われぬ安堵の心持ちの独特な感覚のまま、さらに歩を進め角度を変え斜向かいからも仰いでみる。大仏のお顔はややうつむき加減だが、その目線の真下に入ることにより、大きな慈悲の力に包み込まれる感覚は最高に達する。 
 
 映画「三丁目の夕日」の原作で名声を博した西岸良平氏の「鎌倉ものがたり」は、主人公のミステリー作家一色正和氏が、鎌倉で起こる連続怪事件の数々を解決する漫画作品で、話中に描かれる鎌倉界隈の名所旧跡を見ているだけでも楽しいが、その中の鎌倉大仏の胎内拝観シーンが印象深く、これを今回体験しようと思っていた。 
 
 入り口で参拝料廿円を払う。廿円というのも時代錯誤のようで愉快にさえ感じるが、しかしこの平成のご時世に廿円でという嬉しい思いの方が勝ってしまう。狭い通路を上り青銅製の大仏の広いご胎内に入る。大仏からは包み込まれるという絶対信頼の感覚を強く受けているので、ご胎内に入らせていただくと、言葉を無くすほどの有り難い思いに浸った。 
 
 拝観を終え、次に鎌倉の西方極楽浄土と謳われる長谷寺に徒歩で参拝し、さらに車で大船駅前にある大船観音を参拝した。正覚居士は長く鎌倉にお住まいだが、活禅寺には足繁く通い続けているものの、地元鎌倉の寺社にはほとんど行ったことがないなどと話をしながら、数十年前に一度だけ訪れたという大船観音を参拝した。全長約廿五メートルの巨大な白衣観音像で、昭和初年に地元有志の発起により建立された曹洞宗の寺院である。やはり観音像裏側からご胎内に入ることができ、設計が鎌倉大仏の影響大であったことがうかがえた。 
 
 居士宅に戻り、先年亡くされたご子息雅人君との思い出などを語りながら、まごころこもった奥様の手料理をちょうだいし、明日の参禅会に備えた。床に入らせていただき鎌倉大仏にまた思いを馳せ、あの独特な安堵感は何だろうと改めて考えた。そのとき「大慈悲」の言葉が頭に浮かんだ。 
 
 かつて無形大師は仏と人をわかりやすく説き比べる方便として、仏は人と違い大慈悲であると説かれた。人はそれぞれの主観であらゆる事を良いとか悪いとか区別してしまうが、仏は良い人であろうが、たとえ悪いことを犯した罪人であろうが、大慈悲のお心でそれらを全て無条件に等しく受け入れてくださる、と説かれた。 
 そうだ、大慈悲だ。あのすべての事から守ってくださる、包み込んでくださるような大きな安堵の感は、仏の、大仏の大慈悲のお心そのものの現れに他ならないんだと納得した。 
 
 観光という名目であれ年間を通し大変多くの方が大仏を拝んでいるのである。いや、大仏建立の鎌倉の時代から数百年を経た今日までに、まさに無数の人が大仏を拝み、多くの祈念を重ね、そして幾多の功徳を頂戴してきたのであろう。その間大仏は、こいつは悪いことをしてきた奴だから拝ませてあげるものか、こんな悪い奴に功徳など与えるものかという分け隔ては一切なかった。また、この長い歴史の間にそこが戦場となり、人が敵だ味方だと争い、尊い命でさえ奪い合って来た時代にでさえ、善悪美醜、それぞれがその特性を持つ全ての者に分け隔てなく大慈悲心を与え続けてくださったのだ。 
 
 大慈悲だ。大仏のあの大慈悲に包み込まれるが故に大安堵感に浸れるのだと思った。それと同時に、我々仏教徒は大慈悲心におすがりするだけではいけないんだ、己れ自身が仏と同じ大慈悲の境地に向かうべきなのだ、いや向かわねばならないんだ。日々の暮らしの中でたくさんの出来事と向かい合う時、まずは大慈悲の心でそれら全てを無条件に受け入れることが大切なんだと強く思った。 
 
 翌日を迎え坐禅会ご縁の方々が次々と参禅された。いつもは本山でお迎えする面々をこの鎌倉の地でお迎えするご縁の深さを改めて感じながら、まずは雅人君の追善供養のお経を全員で心より誦し、続いて坐禅に入り、今回感じた「大慈悲」について提唱させていただいた。その後、これも正覚居士奥様のまごころこもった手料理なるお弁当と、皆が持ち寄ってくれたお酒も頂戴し、深くなるばかりの有り難い感謝の念を胸にしながら、充実した楽しいひとときを過ごさせていただいた。無事新春参禅会を終え、東京駅まで法友のお見送りをいただき、長野へと帰路に着いた。 
 
 願わくばいつの日にか大仏と対座し、その大いなるご法息の前に法悦のひとときを味わわせていただければと思うのである。